1931年米大事本土遠征左浅見緑蔵真ん中宮本右安田幸吉

米本土遠征した浅見(左)宮本(真ん中)安田(右)。 サンフランシスコで米男子プロツアーツアープロの歓迎を受けた

 日本にゴルフが伝来したのが1901年、1926年には日本プロの前身、「関西プロフェッショナル争奪戦」、「関西オープン」の第1回大会が相次いで開催されると、翌1927年には「日本オープン」が始まった。
 英国の茶商によってもたらされたゴルフは日本の財界人の間に瞬く間に広がるとコース造成に拍車がかかり財界人の交流の場となった。クラブ競技が盛んにおこなわれ、やがてプロが誕生。プロ競技、あるいはアマとプロが一緒にチャンピオンシップを争うオープン競技が行われた。競技ゴルフの誕生である。

 「日本プロ」「関西オープン」「日本オープン」がスタートした数年後の1931年には、「関東プロ」「関西プロ」の選手権が創立される。「関東オープン」はそれからはるか後の1950年にスタートするが、これに団体戦の「プロ東西対抗戦」が加わった7公式戦が“日本プロツアー”の屋台骨となった。
 日本のプロゴルフ界はゴルフ誕生から1972年までを創成期、現在のツアー制度を確立した1973年から今日まで充実期の2期に分けられるのは以上の理由である。2013年に日本プロゴルフ殿堂を立ち上げ草創期からツアー立ち上げまでをレジェンド部門、それ以降を競技部門とし成績優秀、時代貢献社者を選び顕彰しているのは周知のとおり。

 さて前章でハワイアンオープンに日本の安田幸吉、宮本留吉の男子プロが初遠征したことを紹介したが今回はこれに若手の浅見緑蔵をまじえた日本草創期の3強が米本土に殴り込みをかけるという話である。一行にはサンフランシスコの海産物問屋の駐在員で日本アマチャンピオンの佐藤儀一が現地で合流した。
 いま、アメリカで松山英樹、石川遼、岩田寛の3人がツアーメンバーとして活躍するのを見るにつけ、あくなき挑戦の旅を綿々と続ける姿に感動を覚えるのは私だけではないだろう。伝説の名手たちは航空機もない時代、船で海外挑戦を企て驚きに満ちた体験を重ねたのである。80数年にわたる世界との交流の草創期、世界が今のように狭くなかったころの奮闘をしばし追ってみることにする。

日程と成績は以下の通りである。

<1931年第1次米遠征>
 代表選手・宮本留吉、安田幸吉、浅見緑蔵とアマの佐藤儀一
11月11日 東海丸で横浜発、23日サンフランシスコ着

競技日程

▽「サンフランシスコ・マッチプレー選手権」
(12月7~14日、レイクマセッドコース 賞金総額7500ドル)
浅見緑蔵ベスト16 宮本1回戦敗退 安田予選落ち

▽「パサディナ・オープン」
(12月18~21日、コース名不明賞金総額4000ドル)浅見決勝ラウンド進出

▽「グランデ―ル・オープン」
(12月26~28日、賞金2000ドル)安田・宮本組石川遼回線敗退、浅見・佐藤儀一組2回戦敗退

▽「サンタモニカ・オープン」
安田、宮本75で予選落ち、浅見決勝ラウンド進出も上位入れず

▽「ロサンゼルス・オープン」
(1932年1月7~11日、ヒルクレストCC、賞金7500ドル)3人予選落ち

▽「アガ・クリヤンテ・オープン」
(1月13~16日、メキシコ・チワナ、賞金19000ドル)予選落ち

 1929年のハワイ遠征を機に日米ゴルフ界は親密度を高めた。日本ゴルフ協会(JGA)の招きでウオルター・ヘーゲンが来日するなどした1931年、日本オープンを勝った浅見をまじえた3人の派遣を決めた。主たる目的は米西海岸を転戦するウインターサーキットへの参戦だった。日本初の米本土の遠征であった。
 宮本は大阪・茨木カントリー所属、29歳、先のハワイアンオープンのときは最終日に崩れたとはいえ最終組をまわり13位。
 東京ゴルフクラブ所属の安田は26歳、日本オープン、日本プロなど勝てないながらも2位が7回、“西の宮本”に対し“東の安田”と並び称される実力者。ヘーゲンが初来日した1929年5月にはエキシビションマッチで全米オープン2勝、全米プロ5勝、全英オープン4勝のヘーゲンを下し見事優勝、1日18ホールの短期戦だったが、当時の金で500万円に相当する千円をせしめた。
 23歳の浅見は無名ながら19歳と20歳で日本プロ、日本オープンを勝ち、この年に始まったばかりの関東プロも制覇した若手のバリバリだ。20歳の時から2年間、兵役でゴルフから離れたが、ようやく晴れ舞台にカムバック、全ゴルファーの期待を一身に背負っていた。
 派遣費用はそれぞれの所属コースが負担した。茨木は宮本、東京は安田、程ヶ谷は浅見。メンバーたちの本音は“ほかの二人には負けるな”-。熱い応援をプレッシャーに高鳴る胸の鼓動を抑えるのに3人3様、重圧をはねのけるのに苦労したことだろう。
 東海丸で13日間の船旅は船酔いに苦しんだ。ついたアメリカはお祭り騒ぎ。日本からプロがやってきたぞ、とカリフォルニア州プロゴルフ会長、トッププロが出迎え、その足で市庁舎に向かい市長と会見した。新聞は連日、書き立てた。

 早速、ニックネームがついた。宮本は“トム”宮本。160センチを切る小兵ながら練習ラウンドでロングヒッターぶりを披露した安田はジャッキのような力持ちということで“ジャック”安田。浅見は球聖と言われるボビー・ジョーンズを崇拝していると知ると“ボブ”浅見の愛称となった。珍しさも手伝って3人の行くところ大騒ぎだった。

 その結果、本土初遠征はさんざんのでき。3人とも上位にくい込むことはできずに終わった。無理もなかった。ジーン・サラゼン、ホートン・スミス、ビリー・バーク。そして「日本ではうまい日本酒を飲みすぎた」というヘーゲンがホームで本領を発揮しては勝ち目がなかった。いや、足元にも及ばず3人はコテンとやられたのは当たり前である。
 「ワカメみたいにクラブヘッドにまとわりつくやわらかい芝にアプローチがうまくいかずパットもお手上げ、もう少し慣れることが私たちには必要と感じた」と安田は経験不足を認めた。
 しかし、この遠征で第7回を迎えた「ロサンゼルスオープン」に出場したのをはじめアメリカ勢との真剣勝負を戦えたのは大きな収穫だった。中でもロスオープンはその後、日産オープンなどスポンサー名を変え今はノーザントラストオープン。くしくも第1回日本プロ選手権と同じ1926年創設のクラシックトーナメント出場こそ、時代の先取りとして意味がある。「ノーザンー」の今年は松山が11位、ババ・ワトソンが優勝したリビエラとコースは違ってもロサンゼルスのコースの特徴である、「ポワナグリーン」と「キクユのラフ」にいつに変わらず苦しむ日本勢がいて、見ていていとおしかった。いや、歴史は勝負を離れてトーナメントをほのぼのと眺めやることを許してくれる温かさがあるということだ。

 さてこの遠征には時代ならではの落ちがある。3人のうち安田と浅見はハワイを経由して帰国したのは1932年2月25日である。そしてあと一人の宮本は帰国したのはそれから半年後の8月だった。何があったのか。それは次章で。

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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