サンフランシスコ市長をかこんで(左から)浅見、宮本、安田

サンフランシスコ市長をかこんで
(左から)浅見、宮本、安田

 トム宮本、ジャック安田、ボブ浅見の日本人3選手についたニックネームは、誰でも愛称で呼ぶ米国流の「お、も、て、な、し」。1931年の12月の日本プロゴルフ史上初の米本土遠征ではまさに鳴り物入りの大歓迎を受けた。船で11日間をかけ、ついたサンフランシスコでは早速オープンカーに乗せられパトカーに先導されると交差点では、すべて他車は一時停止。ついたところは市庁舎でアンジェロ・ロッシ市長から歓迎の言葉、記念写真、さらに地元記者との会見。翌日の新聞には「日本から3人のトッププレーヤーがやってきた。日米対抗戦のはじまりだ」と大きな見出しが躍った。
 異例の大歓迎に3人は戸惑った。在米駐在員や家族による歓迎会も連日開かれ、疲労困憊、試合に集中できず、宮本は風邪をひき、こじらせて目が真っ赤に充血する始末。安田は「ワカメのような柔らかい芝にほとほと手を焼いた」と苦労は尽きなかった。芝、文化、生活と環境の違いにゴルフに集中できず若い浅見が孤軍奮闘したものの期待通りの成績は出せず、これがまたプレッシャーになるという悪循環に陥った。
 安田はその苦戦を次のように語っている。
 「その頃の日本のゴルフは、勝負よりも。よいプレーをしなければならない、汚いプレーで勝ってもダメだとされていた。ある試合で一緒に回った地元のプロに言われた。君たちは、ショットは良いが馬鹿だね、と。試合ではショットはどうでもいい、スコアさえよければいいんだ。ショットを見る人は少ない、新聞などではスコアを見る人の方がずっと多いんだからね。勝負で勝て、スコアでいいものが勝つのがゴルフだ」 “ゴルフは勝負である”“どんな手を使っても勝つことが大事である”―
 今なら当たり前のことだが、日本にゴルフがやってきてからようやく30年、プロの数が50人に満たない時代、アメリカ人には何とも頼りなかったのだろう。スコアなんかより勝負だ、と言われてもそれを理解することすらおぼつかなかったというのが本当ところだった。
 何もかもが戸惑いだった。第1戦の「サンフランシスコマッチプレー」は賞金総額が7500ドル。2日間36ホールの予選にはサラゼン、ヘーゲン、デュトラ、カークウッド、当時の賞金王ハリー・クーパーら200人近い選手が出場。2日間36ホールのストロークの予選のあと、上位31人に加え前年の優勝者の計32人でマッチプレーを争った。試合にはサンフランシスコ駐在の日本人アマ、佐藤儀一も出場すると、この佐藤をはじめ安田を除く3選手がマッチプレー進出を決めた。
 この中で特筆したいのはアマの佐藤。サンフランシスコの海産物を扱う日本商社員で地元でも知られたトップアマ。今回の遠征では英語力もかわれガイド役、試合にも出場した型破りな存在だ。この佐藤も含め3人がトップ32入り。マッチプレーの1回戦、宮本は、その年の全米オープン優勝のビリー・バークと対戦、エキストラホールを戦い2ホール目で惜しくも敗れる大健闘が全米の話題となった。

 宮本は自著「ゴルフ一筋」(ベースボールマガジン社)で次のように“報告”する。
 「私と安田、浅見君の3人は米本土で行われたプロの大会に、日本のプロとして初参加したわけだが、私と浅見君、そしてアマで出場した佐藤儀一君の3人が31人の中に勝ち残った。これはかなり評価されていい成績だと思う」と“胸を張った”後、興味深いエピソードを交えて記述している。少し長いが、当時のアメリカのツアーが垣間見える。そのまま引用しておく。
 「わたしの1回戦であたった相手のバークはドライバーもアイアンもまっすぐ飛ばすが、ティーショットは私の方がずっと飛んでいた。それで腕は大したことないな、と思っていたが、なかなかしぶとい。アウトで私の4ダウンとなりインで持ち返して16番で追いついた。18番はロングホールで2オン可能な私が有利と思ったが、モノにできずエキストラホール(延長戦)に入った」小柄な日本の方がはるかに飛ぶ。信じられない光景が現出している。びっくりだ。

 「その1番ホールはまたパー5だ、しかし、私はまたバーディーが取れない。2番は長いパー4でここでも私はチャンスだと思った。案の定、バークは第2打を3アイアンで打ったが、右4、5ヤードに外した。私は6アイアンで2オンだ。これでいけるかな、と思ったが、バークは外からアプローチを直接カップに入れてしまった。私の第1パットはカップに触れたが、10センチほど外れ試合に負けてしまった」―惜敗だった。だが、そのプレー内容は相手を圧倒していた。世界の中で生き生きとたくましく感動すら覚える。
 「ボールは私の方が飛んでいたのに勝てなかったのか、とがっかりしたが、あとでバークはこの年の全米オープン・チャンピオンだと知らされてびっくりした。私は大選手を相手に大善戦したわけである。バークはまた、粘り強い選手として有名であることも、後に知った」知らぬは宮本ばかりなり。だが、この健闘にアメリカでの評判は宮本の思いをはるかに越えて好意的だった。
 バークは新聞のコメントで「トム・ミヤモトは自分がかつて戦った中でも最も偉大な1人である。幸い勝てたものの、もし負けたとしても自分が悪いのではなく相手が強かったからだとあきらめることができただろう」と最大の賛辞を贈った。この後バークは勝ち進み大会のチャンピオンとなった。
 佐藤は1回戦でカークウッドに敗れた。浅見緑蔵はマクスペーデンという名の日本では無名選手を下しベスト16入りしたが、2回戦でレオ・シーゲルに敗れた。「我々は良くやったという、感慨深い」素直に宮本は満足感を現した。

 米ツアーはフォロー・ザ・サン「太陽を追って」アメリカ中を転戦する遠大なツアー。以上が日本のプロ3人とアマ1人が米男子プロツアーに初めて参戦した本土遠征の顛末である。1931(昭和6)年12月から正月を挟んでだ1932(昭和7)年2月まで西海岸のサンフランシスコからロサンゼルス、メキシコまでを転戦するツアーは「ウインターサーキット」と呼ばれた、古き良き時代であった。

 しかし、時代は動く。この遠征には二通りの結末が待っていた。2月、日本の遠征チームは宮本が一人アメリカに残りテキサス、フロリダでの「スプリングツアー」参戦。そのあと全英オープンに出場するなど8月までを米英で過ごした。一方、安田と浅見は帰国の途へ就くのだった。
 ウインターツアーは日本ゴルフ協会(JGA)の派遣だった。そして、宮本には所属コースの茨木CCから強化費用として旅費、滞在費など経費3000ドル(当時の6000円)が提供されたのだ。
 実は米男子プロツアー(USPGA)では日米対抗戦開催を計画していた。英国との対抗戦ライダーカップ、さらにアジアの日本との対抗戦をゴルフ発展の一大イベントとして位置づけていた。米本土遠征はその準備段階。ボブ・ハーローという担当責任者がその企画運営に当たって日本との交渉役を務めた。

 その構想は関西の茨木が重く受け止め会員に宮本派遣の寄付を募ると6000円が集まった。しかし、安田幸吉の所属コース東京GC、浅見の程ヶ谷CCは静観した。ともに日本ゴルフの発展強化を図るのに積極的だが、茨木の反応が鋭かったといったらいいか。
 かくして宮本はアメリカに残ると単身テキサスへ飛びツアーに参戦した。米ツアーの「スプリングツアー」である。ボブ・ハーローは遠征に帯同しエキシビションでトッププロと対戦させ宮本の経費捻出に手腕を発揮した。テキサスでは日本にやってきたこともあるカークウッドとの日米対抗マッチを組みこれに宮本が勝つと新聞、ラジオであおった。伝統のテキサスオープンが始まるとマスターズチャンピオンのジーン・サラゼンとの組み合わせでさらにあおり立てた。宮本は1929年のハワイアンオープンで最終日最終組を回りひと足早く世界デビューを果たしているが、先の米本土遠征でもサンフランシスコでのビリー・バークとのマッチプレーの熱戦でも名をあげた。日本では考えられないほどその知名度は高かった。宮本の行くところ話題がついて回った。フロリダではとうとうとボビー・ジョーンズとの対抗戦が実現すると、二人は5ドルを賭けて熱戦を展開するのである。

 
武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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