1932年、米西海岸に一人残った宮本留吉の米ツアー「スプリングサーキット」への挑戦が始まった。テキサスからフロリダに入り数戦をこなしつつ東海岸を東上する遠大な遠征だ。移動はすべて車だ。一晩かけてついた先ではエキシビションマッチ、プロアマ競技とハードなスケジュールがびっしりだ。
 フロリダシリーズで転戦しているときボビー・ジョーンズとのエキシビションマッチの話が舞い込んだ。日本のプロがアメリカ本土に初めてやってきた、というニュースはアメリカに予想以上のインパクトを与えていた。小柄な宮本のロングヒッターぶりは、“300ヤードは飛ぶぞ”と誇張もあったが、噂は噂を呼んで話題となった。
 トム宮本のニックネームは、「ヘーイ、トミー」と一層親しみを込めた呼び方に変わっていた。物珍しさもあってなかなか人気があったのだ。それにしても後に“球聖”と呼ばれる伝説のプレーヤーとの対戦が1932年に実現していたとは!!まさに歴史の面白さだ。

年間グランドスラムのアマ、ジョーンズとの交流

 生涯をアマチュアとして通したボビー・ジョーンズは1902年生まれ。生涯に全米オープン4回、全英オープン3回、全米アマ5回、全英アマ1回とアマとして考えられるすべてのタイトルを獲得した史上最高のゴルファー。のちに“球聖”と称えられるが、1930年にはその4タイトルを1年間で独占するグランドスラムをやってのけると、30歳で引退を表明、メジャーなどビッグイベントから姿を消したのだった。

 宮本との交流はその引退後のことである。ジョーンズは本来の弁護士業に専念しようとするが周りが放っておかなかった。現役時代に世話になったトーナメントには律儀に顔を出した。ジョージア州アトランタ生まれのジョーンズだ。この時期、マスターズトーナメント開催をにらんで生まれ故郷のジョージア州アトランタ近郊のオーガスタにコースを作る計画も進行していた。
 1932年3月23日、エキシビションはフロリダ州の隣りノースカロライナ州、名門パインハーストコースで実現したのはそんなこととも関連がある。パインハーストとオーガスタはとなり合わせの州にあった。 ジョーンズと宮本はともに1902年生まれ。ジョーンズが3月の早生まれ、宮本は9月なので1歳違いだ。
 宮本はフロリダ州ボカラートンからハーロー夫妻の車で3日かけてパインハーストに入った。遠征は車で3日もかかった。モーテルに止まり途中、食事をとるとき以外、走しりっぱなしの旅だった。ホテルに着きエレベーターを待っていると扉が開きジョーンズが下りてきた。「マイ ネーム イズ ミヤモト」と名乗る宮本にジョーンズは大きくうなずき「疲れたでしょう。ゆっくり休んで。私は練習にいきます」とねぎらった。宮本は「ジョーンズはふっくらした面長の顔だち。だが、鷲のような鋭い目つきが印象的だった」と回顧録(「ゴルフ一筋」ベースボールマガジン社)で振り返っている。
 翌23日、4000人の観衆が集まった。宮本は二人の対戦と聞いていたが、スタート直前になってビリー・バークとビル・メルホーンが“一緒に回ろう”と4人で回ることになった。翌日から「パインハーストオープン」が始まり、その練習日だった。マッチはジョーンズがバークと組み宮本はメルホーンと組んだダブルスのベストボール形式となった。
 メルホーンはその2年前の1930年12月、アジアを巡回する親善マッチで日本を訪れたときに宮本のホームコース、茨木CCでラウンドした旧知の仲だ。宮本の“顔の広さ”がこんなところでも発揮された。和気あいあいのいい雰囲気がマッチを楽しいものにした。
 1番でジョーンズがティーショットをまっすぐ260ヤードとばし大拍手の中で始まった。次いでバーク、メルホーンが打って少し手前。最後に宮本が打つとジョーンズの球の横でとまった。
「するとジョーンズが、やるな、といった感じで私の左腕をつかみ、賭けようか、と言った。いくら賭けるのか、と問い返すと5ドルではどうか、という。バークとメルホーンとは関係なく、二人だけのベットであることを確かめて応ずることにした。(ダブルスマッチが本来の試合だが、私の)気分としてはジョーンズとの1対1の勝負である」相手はグランドスラマー。宮本は燃えた。

コースのグリーンは砂グリーンの時代

 当時のグリーンは芝ではなくサンドグリーンだった。パインハーストは現在5コースがあり、最も知られているのは全米オープンがたびたび行われたナンバー2コース。つい先ごろの2015年の開催時にはコース設立時に立ち返って深いラフのないクラシックスタイルに改造し世界中を驚かせている。創立時のフェアウエーとグリーンとバンカーと土がむき出しのベアグランド、ウエストエリアをハザードとする懐古スタイルにこだわったのだ。
 ジョーンズと宮本の”世紀の対決“は、芝ではなく、砂を堅く固めたサンドグリーン上での熱戦となった。「グリーンが白く光っているのでサンドグリーンであることを知った。これは厄介だと思った。私は六甲(日本初のコースでゴルフを覚えた)でサンドグリーンは経験しているが10年以上前のことだ。テニスコートに打つようなものだからオーバーしてしまうのだ」宮本は警戒した。この日4人はニッカボッカ、にネクタイを締めてのプレーは熱戦となった。
 アウトを終わってジョーンズのワンアップ。インに入り宮本は反撃に転じた。12番でチップインで追いつく。15番、またもチップインを決めて1アップとした。16、17番は分け18番450ヤードの長いパー4、宮本はドライバーショットで5ヤードほどオーバードライブ。ジョンーズは2打をバンカーに入れ宮本は有終の美を飾った。2アップ。勝った!。ベストボールの方も宮本の活躍で勝った。ギャラリーが興奮し握手攻めに会い「私の生涯におけるもっとも輝かしい日である」と宮本は語った。
 ロッカールームでジョーンズは「ヘーイ、トム」といたずらっぽい顔で5ドル紙幣をくれた。胸のポケットに入れておいた紙幣には食堂でジョーンズにサインをしてもらい、記念の写真と一緒に日本へ送った。写真とサイン入り紙幣は額に入って家宝となった。1974年、日本ゴルフ協会の殿堂が広野ゴルフクラブにできたとき宮本は他のカップと一緒に家宝をミュージアムに贈った。

 
武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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