新井規矩雄

 プロゴルファー新井規矩雄さん(72歳)の「プロ生活50周年記念ゴルフ大会」がこのほど行われた。会場となったのは現在の所属先の埼玉・日高カントリークラブ。休場日を開放、約240人の友人、知己が、新井プロを囲んで好天の1日を過ごした。
 新井プロといえば、学士プロのはしりのプレーヤー。年間47戦に出場する頑強なところからタフマン。ベテランになってからはしゃれたハットで知られハットマンのニックネームで人気があった。
 1943年12月生まれ。1966年、東洋大を卒業、その年のプロテストを1回で突破、6か月の研修期間をおいて翌1967年4月、晴れてプロ入りした。関東では2番目の学士プロ、と言われる。

 ゴルフは大学入学と同時に始め、すぐ上達し大学ゴルフ界で名をはせた。と言っても優勝経験は無かった。当時はアマの天才児、中部銀次郎の時代で、目立たなかった。中部はプロにならなかったが、新井もそんな気もなく学生時代を過ごしていた。ゴルフ部もなかった“東洋大の新井”は当時の学生ゴルフ界の一匹オオカミだった。早、慶、明、立、法、中大。関西では甲南、関学、関西、同志社大が主流を占めていた。
 その新井が東洋大を出るとプロ入りしたので驚いたものだ。プロの世界は杉本英世、安田春雄、河野高明のビッグスリー時代。いわゆる職人たちの叩き上げしか通用しないと大方が思っていた。新井の実家は埼玉・飯能市の山林酪農家、地元の市役所に就職が内定していたが、「プロテストを一回だけ受けさせて」と父親に頼んで「一回限りということで受けたら合格」したのがプロ入りの真相である。ところがこれが引き金になった。その後、続々と学士プロが誕生したのである。今回、そのプロ50周年に当たり学士プロ誕生の経緯を紐解き学士プロの歴史を探っておこうという次第。

 古くから、大学を出ると学士様と言われた。役人や大企業に就職し出世することが人生の目標と言われた。プロのあるスポーツといえば大相撲と野球、ボクシングくらい。ゴルフもあったが、大学で活躍しても卒業すれば家業を継ぐかサラリーマンになるのが普通の道だった。プロスポーツは職人の世界、学生時代にかじったぐらいではとても歯がたつまい、とみられていた。ところが新井は実質デビューの1968年の関東プロ、日本オープンで2位に入った。1967年にプロテスト合格、10月に研修期間を終えプロ入りした新人の大活躍である。
 優勝までには時間がかかったが、1972年の東海クラシックでマスターズ出場のスター選手、河野高明を下して初優勝を飾った。そんな勢いを誰もが感じた。私事で恐縮だが、新井より、ちょっと上の同世代の学生ゴルフファー上がりの筆者も、身内に旋律が走る興奮を抑えるのに苦労したのを覚えている。「活躍はむりだろう」と思われた学士プロが存在感を増幅させ“やっていける”と学生界。“こりゃあなどれないぞ”とプロの世界、ゴルフ界が変貌を遂げた。きっかけは新井の活躍が起爆剤だったと今では結論している。

 この直後、後を追うように2人のホープがプロ入りした。翌1968年10月、日大の西田升平、沼沢聖一の二人がそろってプロとなった。中でも西田は戦前の五輪・棒高跳び銀メダリスト、西田修平氏の次男。父の赴任先のブラジルでゴルフを身に着けて帰国し、学生、アマのタイトルを一手にし人気を博した。西田、沼沢は学生ゴルフ出身者の両輪となってプロゴルフ界を盛り上げた。その影響で1972年には片山康、山田健一(いずれも日大)の学生チャンピオンが日本アマのタイトルを引っ提げてプロ入り、活躍している。以来学士プロは今日の東北福祉大の松山英樹まで引き継がれている。いまや学生出身プロはプロゴルフ界の主流となっている。

 ところで学士プロの定義だがこれが難しい。大学出なら学士プロ?それとも、学生ゴルフ界で活躍してのちに活躍してこその称号?
実は日本で一番古いプロの大会、1926(大正15)年創設の「日本プロ選手権」に出場した村上伝二という慶大出のプロがいる。慶大の野球部が慶応初のハワイ遠征したときの一塁手兼投手である。この人が慶応を出て家業をしながら関西・鳴尾GCのクラブチャンピオンになった。そんな折、プロが集まって第1回日本プロを開催することになりプロ宣言して大会に出た。この大会こそ日本最初のプロの大会。村上の生年がはっきりしないが、40歳を過ぎたばかりと推定される。そこで、この人こそ日本初の学士プロ、という声が上がっているが、ちょっと腑に落ちない。なぜなら今のように大学ゴルフ界が組織されていれば学士プロだが、組織のない時代だからその“呼称”はおかしい。大学を出たから学士プロと直結させるわけにはいかないのだ。村上は大学時代にゴルフをやっていたかもしれないが、当時、学生ゴルフ界は組織されていなかった。いまのように学生ゴルフ界があってプロ入りという道を経て初めて学士プロであろう。したがって私見だが、村上は学士プロではない。

 では、いったい誰が学士プロの第1号か?
 3人の候補者がいる。その一人は古賀春之輔。慶大出。戦前の1930年代の日本オープン、戦後1950年代の関西オープンに出場した。のちに宝塚CCヘッドプロから、1980年代、日本プロゴルフ協会(PGA)の副会長を務めた。アマでの戦歴は見当たらない。
 2人目は1936年4月19日生まれの奥津弘之。明大時代に学生ゴルフ界で活躍、1963年4月にプロテストを合格、箱根CC所属で活躍した。関東学生界最初のプロと言われている。この年には愛知学院大出の鈴村照男が1963年9月にプロ入りし、関西での学士プロ第1号と言われている。鈴村は学生時代、名古屋を中心に活躍。プロ入り後は1967年、関西オープンで島田幸作に3打をつけて優勝をするなどプロ2勝をあげた。
 こう見てくると戦前戦後に活躍した関西の雄、古賀春之輔と明大出の奥津のどちらかに絞られるようだ。だが、学士プロの定義が明確でないことはすでに述べた。学士プロの第1号争いは戦歴などのさらなる検証と考証を待たねばならないのか、どこかで結論をつけた方がよいのか、迷うところだ。新井プロは「私は奥津さんが第1号ときいて目標にしていました」といっている。

 
武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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