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日本のプロ第1号の福井覚治。1920年、兵庫・舞子ゴルフ倶楽部のプロ兼 キャディーマスターとなった
[日本プロゴルフ協会提供]

 日本のプロゴルファーの第1号の福井覚治は1920(大正9)年、兵庫・舞子カンツリー倶楽部が立ち上がると同時にプロ兼キャディーマスターとなった。舞子は同じ兵庫でも丘陵地にできた5番目のコースであった。1892年、六甲のふもと、海っぺりの町に生まれた少年がゴルフを知るのが12歳。そしてプロになったのは28歳であった。17年の歳月はすべてが歴史である。中身の濃いその足跡を追う。

 夏しかゴルフができない不便さに我慢できない六甲の外国人ゴルファーたち。その中でも大のゴルフ好きだった、ウイリアム・ジョン・ロビンソンが仲間たちと立ち上げた横屋ゴルフ・アソシエーション、通称、横屋。1904年。現在の神戸市東灘区魚崎、阪神電鉄・青木(おうぎ)駅近くにあった。

 福井の自宅はクラブハウスに転じ、一家をあげてコース管理から食堂、キャディーの手配など運営をやることになったのが発端だった。覚治少年は12歳。すでに六甲山にゴルフがあり外国人たちが上り下りしているのを見て育った。だが、新しいスポーツが自分の家の庭先に降ってわいたようにやってくるとは思いもしなかった。運命だったろう。

○突然、自宅がゴルフ場のクラブハウスに

 日本で2番目のコースは自宅に隣接してできた。 家の土間はクラブハウスとなり、父親の藤太郎はコース造成の先頭に立って働いた。完成後はコース管理を担当し、姉たちは食事を造った。次男の覚治は ゴルフ場オーナーのロビンソンにかわいがられキャディーをつとめ、ロビンソンの専属キャディーとなる。ロビンソンのお供をしているうちに当時貴重品のクラブやボールをもらいゴルフを覚えた。素質があったのだろうめきめきと腕を上げた。

 コースは6ホール、1196ヤードのショートコースだったが、当時はそんなレベルだ。1年中プレーができる初めてのオールシーズンコースにゴルファーは喜んだ。交通の便もよく次第に日本人ゴルファーの姿も見られるようになっていった。やがて自分たちだけのコースを造ろう、という声も上がり兵庫、大阪の財財界人が動き始め「日本人だけのコースを造ろうじゃないか」という機運が高まるのだった。
 そんな折、寝耳に水の事態発生だ。横屋コースが閉鎖に追い込まれる。外国人居留地用だった土地が買収され使えなくなった。ロビンソンを筆頭にかなり増えた日本人ゴルファーは新コース作りに奔走した。20歳を迎え成人した福井もコース候補地を探しコース設計に意見を求められた。レッスンをするとかなりのフィーをもらえるまでに成長していた。1914年、旧鳴尾競馬場跡に鳴尾ゴルフ・アソシエーション・コースができたとき、福井は「鳴尾を立ち上げたときコース選びや設計のアドバイスを求められた。その時”これで生きていこう”と私は思った」という。この鳴尾はわずか6年で土地買収でクローズトなったが、時を経るごとに福井は自信を持った。

○日本初のプライベートコースが福井覚治の原点1920年

 福井にとってラッキーだったのは、閉鎖された横屋が、そのまま15年以上放置されたことだった。土地は石油会社に買われたが、利用されることなくそのままにあった。ゴルファーは以前どおり、福井の家の、クラブハウスにやってくるとコースで遊んだ。コースは福井覚治の専用コースになった。誰も咎める者がない。自由に使えた。ゴルファーたちの格好の“遊び場”として使用された。

 福井はクラブハウスの向かいに小屋を建てると工房を造った。クラブ修理はプロの何より大事な仕事だった。ヒッコリーシャフトにガタパーチャボールで軟弱なクラブは悲鳴を挙げた。高価なクラブはだれもが修理に修理を重ねて大事にした。工房の横に雨天練習場を造った。雨でも忙しかった。日本で初の室内練習場は繁盛した。
 「このころレッスンを頼まれたが、口でいうことができないので私は打って見せるしかなかった。そうして、見て判断してもらうしか教え方を知らなかったからだ」と福井は語っている。コースは放置されたが、コース管理はお手のもの、ティーもグリーンもバンカーも維持できた。自然を生かした理想的なゴルフ教室が出来た。
 横屋、鳴尾アソシエーションと閉鎖されたロビンソンと福井はまたも立ち上がった。ロビンソンは新たなクラブつくりを始めた。日本人メンバーたちの熱気が後押しすると1920年、鳴尾が明石の海岸に、次いで舞子は同じ垂水の丘陵地にほぼ同時に2コースが出来上がった。
 このときロビンソンは高齢で一線を遠ざかったが、関西の財界ゴルファーたちの意気高く鳴尾はロビンソンを名誉会員に横屋コースを引き継ぐ形で立ち上げ、今日の鳴尾ゴルフ倶楽部への道をスタートした。
 舞子はそれからやや遅れた9月、明石市垂水の丘陵地に2483ヤード、パー36でオープンした。28歳の福井覚治がプロ兼キャディーディマスターとして就任し、六甲の少年キャディーだった越道政吉が助手として手伝った。

 整理をしておこう。
1920年、福井がプロ第1号となった年、兵庫には六甲、鳴尾、舞子の3コースが、関東にニッポン・レース・クラブ、東京GC、仙石コース、そして長崎に雲仙ゴルフリンクスの計7コースがあった。
 横屋の閉鎖など紆余曲折は紹介したとおり。しかし、コースがなくなるというマイナス要素にとどまらず,むしろプラス面が強調されてゴルフはたくましく育っていることが浮き彫りになったようだ。

 1920年、舞子CCが福井をプロゴルファー第1号に据えたのを機に日本にコースが続々と誕生し、プロ2号に越道政吉、3号に中上数一、4号に宮本留吉が関西に生まれると、関東では東京クラブに安田幸吉、横浜根岸では関一雄がプロゴルファーとして次々と名乗り名乗りを上げた。しかし、時代はまだまだアマチュアがリーダーシップを握りプロは幼少期である。

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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