スポーツ用品メーカーのヨネックス株式会社は31日、東京・千代田区の帝国ホテルで昨年11月に亡くなった、創業者の米山稔ファウンダー名誉会長(享年95)のお別れの会を開いた。
米山氏とゆかりのあった大勢の関係者が午前中は参列した。午後は一般献花が行われている。テニスやバドミントンは陣内貴美子(55)、08年北京五輪女子ダブルス代表の小椋久美子(36)と潮田玲子(36)、12年ロンドン五輪女子ダブルス銀メダルの藤井瑞希(31)らが足を運んだ。ゴルフは同社と所属契約する米山剛(54)や若林舞衣子(31)らスポーツ界から幅広い関係者が集った。
日本プロゴルフ協会(LPGA)の樋口久子相談役(74)は報道陣に、米山氏との思い出話を明かした。「私がLPGAの会長だった頃、日程発表後にトーナメントが1つ無くなることがあって。困った私は、本当は翌年から大会を開催予定だったヨネックスさんに急遽、今年からやって欲しいとお願いをしに行って。そして米山稔さんが陣頭指揮を執って下さり、コースコンディションも整えて下さって、第一回大会の開催にこぎつけて。本当に助けて頂きました。ゴルフ界だけでなく、日本のスポーツ界の発展にすごく貢献して下さった方ですね」と深く感謝した。そして1999年から続く日本女子ツアーのヨネックスレディスは「来て下さるお客様が、ものすごく大事にして下さる大会。ぜひそうなって欲しいですね」と今後、同大会が長く続いていくことを願った。
日本プロゴルフ協会の倉本昌弘会長(64)は、1996年開場の(ヨネックスレディスの大会会場の)新潟・長岡市のヨネックスカントリークラブのコース監修を務めたという。「いとこのレックス倉本が、ヨネックスさんと用具契約をさせて頂いたのが最初のご縁で。川田太三さん設計のヨネックスCCを監修させて頂いたり、長くお付き合いをさせて頂きました」と振り返った。米山氏の人柄についても「この方は亡くなることはないんだろうな、というくらいお元気な方でしたね。コース監修の時にも現場で立ち会って下さって、バンカーはもっとこうした方が、ティーグラウンドはこうしたらどうだろう、などと色んなお話をしましたね。本当に熱心なお方でした」と振り返った。
日本男子ツアー17勝の石川遼(28)=カシオ=も、黒のスーツ姿で献花に訪れた。「今日、久しぶりにお会いした(ヨネックスの)方々もたくさんいて。会長がまた皆をつないで下さったみたいでありがたいし、本当に感謝の言葉しかないですね」と故人をしのんだ。
アマチュアだった小学6年の頃からモニター契約でサポートを受け、2008年のプロ転向時にヨネックスと用具契約を結んだ。「今まで多分、ジュニアゴルファーでモニター契約というのはいなかったと思う。その中で理解して頂いてサポートをして下さった。ヨネックスさんだからこそ、あの時、あそこまで自分もやれましたね。大変お世話になりました」と感謝の言葉を口にした。
ヨネックス社は1983年にカーボンアイアンを発売。「2番手以上の飛び」と当時、大きな話題となった。石川は実体験を交えて、同社の製品作りのすごさを説いた。「アイアンもカーボンなんていう発想はなかったと思う。ドライバーもクラウンの部分をカーボンにして。小学6年、中学1年と僕も使っていた。軽量化して飛距離を生んで、と。今でもクラウンはカーボンというのが続いています。それってすごいことだなと思います。(ドライバーの)大型ヘッドもヨネックスさんが450CC、460CCを始めて。当時、ジュニアで460CCを僕が使い出した時、(周囲は)僕のことをばかにしていた。でも、今となってはそれが普通。そういった発想と作り上げるスピード。お客さんが何を求めていて、何が喜ばれるかが、テニスやバドミントンのラケットだけじゃなくて、ゴルフの製品にも全部受け継がれている。その技術というのが本当にすごいなと思いますね」とうなずいた。そして「それはやっぱり、稔さんの思いがあってこそだと思うんですよね」と、創業者・米山氏の存在と功績の大きさを改めて実感していた。