驚異のエージシューター田中菊雄の世界57 武藤一彦のコラム─エージシューター田中さんのゴルフは筋ガネ入り。ただの遊びじゃないからタフでしたたか。そのゴルフ人生の背景は?


 島根県松江市から22歳で上京、運送業をきっかけに、食品、さらに不動産建設,同管理運営の会社を起業,一代で社員400人を抱える北山グループの総帥となった。古い言葉だが、立身出世、その人生は聞いているだけで通快だ。
 小さなトラックで始めた運送業は時代の流れで配達するものが増え電報の休日配達にまで及んだ。食品は製造が間に合わないのを見かねて自分で作り始めたのがきっかけだった。肉まんの自動製造機を開発したこともある。自分で作って配達すれば時間がはかれた。バターやミルクを真空パックする技術を開発すると航空会社の機内食に採用され、会社を作った。傘下のケータリング会社はグループ傘下の安定企業に発展した。

 

 不動産業も運送業から発展したものだ。拠点の神奈川県川崎市高津の街を配達していると空き地が目についた。町は発展途上。そこで土地のオーナーに交渉、農地などをマンションに転換すると住民が増え管理会社を作った。子供たちが育ち学校も増えPTA会長を務めた。
 ゴルフとの付き合いはそんな環境から自然発生的に生まれた。家主、PTAの父兄、何より地域との交流にゴルフは役立った。住民の生活を支え面倒をみる田中さんだった。ゴルフは発展した傘下の会社の企業スポーツとなった。地域の健康も田中さんにゆだねられた形だ。ゴルフは業務の一環となった。特に住宅管理をする社員は住民の健康管理も合わせて行わなければならなかった。

 

 このあたりが田中さんらしい。「自分が住まなくてはわからない」と社員は30代そこそこで自社のマンションのオーナーとなった。給料から天引きして購入資金を貯めローンを組んだ。一方、田中さんは、自分は長いこと借家住まい。ゴルフを始めたのは35歳、自宅を建てたのは40歳過ぎだった。

 

 田中さんには3人の息子がいる。3人とも自社の主要ポストに就く。3人はそろって大学は桜美林大出身、こういういきさつ。長男が入学したのを期に学長と田中さんが意気投合、その時点で残りの2人も同じ大学に入ることが決まった。「人は信頼の中ではぐくまれるのがいい」という信念だった。3人ともテニス部に在籍した。ゴルフは社会人になってからはじめ、いまは2、3コースのメンバーだ。「社員も地域住民も健康でなければならない」と田中さんはゴルフと真摯(しんし)に付き合う。
 前触れが長くなった。田中さんとそんな息子の一人との交流でいい場面に出合った。田中さんを理解する上でわかりやすいエピソードを伝えたいと話が”遠回り“になった。次回、明かす。

 

 ◆田中 菊雄(たなか・きくお) 1935年3月3日、島根・松江市生まれ。82歳。神奈川・川崎市を拠点にリフォーム、食品など5社、社員400人を抱える「北山グループ」取締役会長。東京・よみうりGCなど4コース所属、ハンデ5。初エージシュートは06年8月、71歳のとき静岡・富士国際富士コースを70で回った。173センチ、65キロ。