カートのナンバーは「333」尾崎将司さんは長嶋茂雄さんに憧れた 弟子への教えは「3・3・3」くしくも同じ年に天国へ 


95年12月、ゴルフ日本シリーズで優勝しギャラリーの声援に応える「ジャンボ」の愛称で親しまれた尾崎さん

95年12月、ゴルフ日本シリーズで優勝しギャラリーの声援に応える「ジャンボ」の愛称で親しまれた尾崎さん

 「ジャンボ」の愛称で親しまれた男子ゴルフ界のレジェンド、尾崎将司さん(本名・尾崎正司)が23日、S状結腸がんのため千葉市内の自宅で死去した。78歳だった。約1年前から闘病していた。尾崎さんはプロ野球投手を経て1970年にプロゴルファーに転身。国内最多のプロ通算113勝(うちツアー94勝)、歴代最多12度の賞金王に輝き、2010年に世界ゴルフ殿堂入り。約半世紀にわたりゴルフ界に携わり、近年は後進の育成に尽力した。葬儀は年内に近親者のみで執り行い、年明け以降にお別れの会が催される予定。

 尾崎さんは23日午後3時21分、自宅で家族らに見守られながら息を引き取った。亡くなる前日に自宅を訪ねた中嶋常幸(71)は、長男の智春さんから「今は会えないが、おやじは頑張っています」と面会を断られたという。その翌日のあまりに突然すぎる死だった。23日は原英莉花(26)ら門下生と自宅での食事会が予定されていたが、1週間前に急きょ中止となっていた。

 約1年前にS状結腸がんと診断され、本人の強い意向で千葉市内の自宅で療養していた。闘病しながら天気や体調のいい日は、外に出て弟子を指導。最後までゴルフ場での生活を選んだ。車いすやつえを使って生活も11月は弟子のクラブ調整に励み、ラーメンを食べるなど元気な様子を見せていたが今月、体調を崩した。それでも入院はせず、最期を自宅で迎えることを選んだという。

 181センチ、90キロの恵まれたサイズから繰り出す飛距離は圧倒的。70歳で278ヤードを飛ばした。規格外の飛距離にプロ野球からプロゴルファー転向当時、ついた愛称が「ジャンボ」。就航したばかりのジャンボジェット機が由来になった。拳を外側に回すガッツポーズ「コブラポーズ」で人気を博した。

 最後のツアー出場となったのはプロ50年目の72歳だった19年11月のダンロップフェニックスだった。初日に10番から出て12ホール目終了後に棄権した。最後に公の場に姿を見せたのは24年2月、自宅の敷地で行った若年層を対象にした主宰アカデミーのセレクションだ。ツアーへの復帰を聞かれると「ないない。おれのことはいいんだよ。人生もほとんど終わっているんだから」と語っていたが、「引退」という2文字は決して口にしなかった。50歳以上のシニアのツアーは「眼中にないね」とレギュラーツアーにこだわってきた。尾崎さんの美学だった。

 プロ野球・巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さん(6月死去、享年89)に憧れ、親交を深めた。長嶋さんを象徴する数字「3」を愛し、自身の車や自宅に併設するゴルフ場のカートのナンバーに3が並んだ。弟子には「俺は最初と最後の3ホールを大事にしてる」として「3・3・3」の教訓を力説したほどだ。長嶋さんが6月に死去した際は悲しみのあまりコメントできず、11月21日に東京ドームで開催された「お別れの会」も行かなかった。「車いす姿で長嶋さんに会いたくなかったのかも知れない」と関係者。くしくも憧れのミスターと同じ年に旅立った。

 晩年はアカデミーを開き、教え子の原や西郷真央、今季年間女王の佐久間朱莉(しゅり)らはトップ選手に成長。数え切れない記録と記憶を刻んだ尾崎さんの遺志は後進に受け継がれた。葬儀は年内に近親者のみで執り行われ、後日、お別れの会を開催する。

 ◆尾崎 将司(おざき・まさし)本名・尾崎正司。1947年1月24日、徳島・宍喰町(現・海陽町)生まれ。徳島・海南高(現・海部高)3年時の64年センバツで甲子園優勝投手に。翌年、西鉄入り。実働3年で退団した。70年にプロゴルファー転向後、名前を「正司」から「将司」に変更。71年の日本プロ選手権で初優勝。2002年全日空オープンでツアー史上最年長の55歳7か月と29日で優勝。通算113勝(国内ツアー94勝、うちメジャー20勝)。賞金王は歴代最多12回。生涯獲得賞金は26億8883万円で歴代1位。愛称「ジャンボ」。趣味は盆栽で00、01年に日本盆栽協会賞を受賞。181センチ、90キロ。

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