藍が宮里藍に語りかけたねぎらいの一言「お疲れさま」


9月11日の練習後、エビアン選手権を意識したネイルアートを披露した宮里藍(カメラ・高橋 宏磁)

9月11日の練習後、エビアン選手権を意識したネイルアートを披露した宮里藍(カメラ・高橋 宏磁)

 その一言に「やっぱり、さすがだな」と改めて感心した。「プロゴルファー・宮里藍」は期待を裏切らない。いつも。どんな時でも。現役最終戦も同じだった。

 9月中旬、藍の現役最終戦となったエビアン選手権(14日~17日、フランス)を取材した。11日、コース内で久しぶりに顔を合わせると、ヒロインは笑いながら頭をペコリと下げた。「エビアンまで、遠路はるばるありがとうございます」。

 米メジャー初制覇への期待、視線、そして重圧。周囲の視線を受け止め、様々な感情を抱えているはずなのに、記者への気遣いを忘れない。中学時代から親交がある上田桃子が「いつでも気配りや心配りを忘れない」と語るのは大げさではなく、その人柄で多くの人を魅了してきた。

 155センチの小さな体には、大きな責任感を詰め込んでいる。03年9月のミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープンでツアー史上初のアマ優勝。約1か月後にプロ転向を宣言し、ゴルフ界に一大ブームを巻き起こした。04年はサントリーなど合計10社(団体)のテレビCMに出演。一人で町を歩けなくなるほど、注目された。

 連覇がかかった04年9月のミヤギテレビ杯。実は大会直前に胃腸炎を患っていた。棄権してもおかしくない状況で強行出場した。連日のように点滴治療を受け、痛みをこらえてクラブを振った。当時はまだ19歳だが、すでに「プロゴルファー・宮里藍」として試合に出ることの義務、責任感を誰より理解していた。

 06年から主戦場を米ツアーに移し、開幕から米国を中心に戦った。それでも「責任感」は失わなかった。むしろ、強くなった。日本ツアーを離れ、より大きな舞台に立ったことで「宮里藍」に期待する声も大きくなったからだろう。

 慣れない環境に苦しみながら、8月下旬まで米ツアーで戦った。その後は9月から日本ツアーに参戦。日本復帰後は3試合に出場して2連勝し、3位が1回。無理がたたったのか、10月上旬に急性胃腸炎を患い、沖縄県内の病院に入院した。

 関係者によると「試合のことなど、考えられる状況ではなかった」という。それでも、藍は同13日開幕の富士通レディースに出場する道を選んだ。報道陣や関係者には病気はもちろん、入院の事実を伏せたまま。見事2位に入った。試合後、本人に涙はなかった。不覚にも私が泣きそうになった。大会前、父の優さんに事実を聞いていたからだ。大会中は弱音を吐かなかった。敗北を素直に認める姿に心を打たれた。

 担当記者として追いかけた約5年間で、藍が試合中の取材を拒否したのは1度しかない。06年4月のギンクラブ・リゾーツオープン終了後だった。最終日は米ツアーで初めての最終組。3打差2位から逆転で初優勝を狙ったものの、76と崩れて5位に終わった。

 ラウンドを終えるとロッカールームで人目もはばからず号泣した。ひとしきり泣き腫らした真っ赤な目で、藍は取材に応じようとした。そんな時―。ロッカールームでけなげな姿を見たカリー・ウェブ(豪州)が、藍のマネジャーに忠告した。「どんなにつらい時も、藍は大勢の報道陣の取材に応じてきた。今はその時ではないと思う」。藍は尊敬するウェブのアドバイスを聞き入れ、そのまま帰宅した。

 メディア、スポンサー、ファンの期待を背負い、全力で駆け抜けた14年のプロ生活は幕を閉じた。現役最後の試合を32位で終えると、藍は語った。「自分自身に『お疲れさま』と言いたい」。本音だろう。素顔の藍はプロゴルファー・宮里の奮闘をねぎらったのだ。「14年間、毎週のようにプレッシャーの中で戦ってきた。期待感、プレッシャーを手放せるので、そこはすごく大きい」。今は疲れた体と心を少しでも休めて欲しい。再会を楽しみにしている。素顔の宮里藍は、どんな言葉をかけてくれるだろうか、と。(記者コラム・高橋 宏磁)

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