
12年10月、日本オープンに出場し同組でラウンドしたAONこと(左から)青木、尾崎さん、中嶋
日本ツアーで通算最多の94勝を挙げ、「ジャンボ」の愛称で人気を博した尾崎将司さんが23日、S状結腸がんのため死去した。12度の賞金王に輝くなど、男子ゴルフ界の第一人者として君臨。1970年代から80年代にかけては、青木功(83)、中嶋常幸(71)とともに「AON」と呼ばれる時代を築いた。
尾崎将司さんは181センチ、90キロの大柄な体を生かした豪快なプレーで勝利を重ねた。青木功、中嶋常幸と「AON」と称され、ゴルフ界を席巻した。1970~80年代の賞金王は、ほぼこの3人の名前で埋まっている。88年の日本オープン(東京GC)では、尾崎将司さんが17番で10メートル超のバーディーパットを沈めて抜け出し、三つどもえの争いを制するなど、名勝負を繰り返してきた。
12年の日本オープン(那覇GC)予選ラウンドが、最後の3人での同組になった。同スコアで予選落ちした青木に対して「あのオッサンはどうでもいいんだよ。あっちは楽しんでやればいいけど、こっちはツアー選手だ」とジャンボ節。レギュラーツアーを主戦場として戦う65歳(当時)のプライドをのぞかせた。
見せることにもこだわり抜いたプロゴルファーだった。手首を曲げる独特のガッツポーズ「コブラ」を、ギャラリーは待った。3タックが入ったダボダボなズボンを風になびかせフェアウェーを闊歩(かっぽ)する。遠くからでもジャンボと分かる派手なウエアと、足元は「J’s」のスパイクレスシューズ。襟足だけ長いヘアスタイルもユニークで、どれを取っても個性的で華やかだった。
40歳以降に63勝を挙げた。研究熱心で、新しいことを取り入れることにちゅうちょしなかった。80年代前半に苦しんだ尾崎将司さんは87年、他に先駆けてメタル製ドライバーを導入して再び加速した。圧倒的な飛距離を武器に88年は6勝、89年は7勝を挙げ、「パーシモン(柿)」の木製ヘッドが主流だった日本ツアーに衝撃を与えた。
青木は「こんなの出なけりゃいいと思った。ジャンボに勝たれちゃうから」と当時を振り返る。90年代半ばにはチタン製ドライバーを試すなどライバルの先を突き進んだ。キャディーとして支えた佐野木一志さんは「進取の精神で新しいものに貪欲だった。仲間に『習志野のエジソン』と呼ばれた」と話す。最後までトップランナーであり続けたジャンボは、ゴルフ界の英雄だった。

