「日本プロ」は23歳の宮本留吉が10歳上の福井覚治を36ホールのプレーオフで破り初代チャンピオンになった。続く初のオープン競技「関西オープン」はプロの福井が奮起、2位に8打差をつける圧勝でプロの面目を保った。
1926年は日本にトーナメントが誕生した歴史的な年。それまでアマ主導の世界にプロフェショナルゴルファーという新しい職業が根付き、今日のプロゴルフ界を形成したエポックとなった。そこで今回から歴史に埋もれた名手たちをすくい上げる。その第1回は中上数一だ。
中上はすでにプロとなっていながら第1回の日本プロには出場していないのでなじみがないが、その3か月後、11月の関西オープンでは優勝した福井を最後まで苦しめて2位に入っている。
1894(明治27)年1月2日の早生まれ、福井覚治が1892年10月だから1学年下だ。神戸ゴルフ倶楽部、通称、六甲では当時、近くの村の小学生たちは5、6年生になると、外国人たちが山の上で遊ぶゴルフのキャディーとなった。キャディーのアルバイトは休日に限られ、1日5銭がもらえノートや鉛筆代になった。
キャディー時代の中上のキャリアは傑出した華々しさに彩られる。六甲の創設時のメンバーでのちにクラブチャンピオンになり日本アマのタイトルもとったH・E・ドーントは、中上を専属キャディーとしてかわいがった。ドーントはスコットランド出身、当時のナンバーワン・プレーヤーは中上に本場のゴルフ技術と精神を教えたに違いない。中上は長じて数々の歴史を打ち立てるときこの時の教えが精神的な土台となっていることを常に感じる。
日本女性最初のゴルファー、小倉末子さんのキャディーディーをつとめた中上少年
幼年時代のもう一つのエピソードは日本人初の女性ゴルファー、小倉末子にかわいがられバッグを担いだという記録である。
「六甲で最初に、日本人として家を持っていた小倉庄太郎氏の令妹、末子さん(当時15歳)は、日本で最初の夫人ゴルファーであります。その頃キャディーになった中上数一は同嬢と一緒にコースを廻ったといいます」と西村貫一著「日本のゴルフ史」にある。末子はのちに東京・上野の日本芸術学校(現・東京芸術大学)の音楽家に入学、ピアニストとして名をあげその後、教授となった。
六甲では冬は寒くてゴルフができない。秋の終わりに行う少年キャディー大会はそんなシーズンの最後にメンバーが少年たちの労をねぎらうために行った。
中上はその常連で、1906年に12歳のとき7位、1908年には14歳で2位に入った。この大会にはのちに紹介する越道政道も出場した。大会には賞金も出ておりこれが初のプロ競技と見ることもできる微妙な大会である。中上、越道は長じてプロになる。越道は日本で2番目、中上は3番目といわれている。
中上はこうして生い立ちにかなりのデータが残された。しかし、プロとなった年は実ははっきりしない。日本人のプロ第1号の福井は1920年、兵庫・舞子GCが創設と同時にプロとなったし、越道は1922年の兵庫・甲南GC創設時に認定されている。さらにはっきりしているのは宮本留吉が1925年、大阪・茨木CCのオープンとともにプロとなっている。
こうして見るとコースが出来ると同時にプロが誕生していることがわかるが、そうなったのはコースが出来て少なくとも4、5年経ちプロ予備軍の少年たちが育ってからの話だ。少年キャディーはバッグをかつぎ、当初はメンバーを手助けするが、やがてメンバーの身の回りの世話をする必要が出てきた。たとえばキャディーマスターという仕事は少年キャディーの年かさの少年の大事な仕事、のちにその“卒業生”はキャディーディマスターとなった。メンバーのスタート順に合わせバッグを用意する。スタート時間もまちまちだからリーダーシップのいる重要な役割だ。ゴルファーが増えると雑事も多くなる。クラブ修理やビギナーへのレッスンをする便利な人材も必要だった。早朝のゴルファーへの対応、ホールアウト後、トランプに興じ酒や食事を楽しむ“19番ホール派”の接待も必要なことだ。プロが認定されたというのはそうしたコース運営に必要な仕事が日に日に増えたからだった。
では、中上がいつ、どこでプロになったか。これには2説ある。1922年、神奈川・程ヶ谷CCが出来ると同時に将来を見込まれ初代プロになったという説と1925年、京都CCが創立されたときという説だ。実はこの間、1922年から1924、5年にかけての中上の消息は複雑でよく把握できない。そのため六甲の少年キャディー時代、あれほど話題の多かった男の10年余は空白が多いのである。福井より2歳下、しかもキャリアを十分積んでいるのだから無為に過ごしてはいない。それだけに記録、資料の欠落が残念だ。