日本プロゴルフ殿堂
第1回日本プロ選手権に出場した6人の伝説のプロの中で気にかかる選手といえば越道政吉だ。
六甲の少年キャディー競技で活躍、1922年、兵庫に甲南ゴルフ倶楽部が創立されると同時にプロとなった。日本で最初のプロゴルファー、福井覚治がプロになったのが1920年。それより遅れることわずか2年、日本で2番目のプロゴルファーだ。
年齢は福井の3歳下と推測されるが、生年は不詳。プロとなってからの活躍も常に上位に入り、中心選手として活躍するものの、優勝経験はない。しかし、歴史との関わりが多く、特異な存在として忘れてはならないプロゴルファーだ。
六甲の少年キャディーの出身。1906年の第2回少年キャディー大会で11位、大会は1909年を最後に記録が途絶えるが、そのときは2位。大会には50人くらいが参加した。越道の1、2歳年上にはプロ3号の中上数一がいて1909年に優勝している。中上については前章で紹介した。
六甲のリゾート、横屋で温めた福井覚治との師弟愛
越道と福井は師弟関係にある。こんな経緯だ。
標高の高い六甲は冬寒く、11月に閉鎖され、冬季はプレーできなかった。そこで六甲のゴルファーたちは1904年、海岸沿いに横屋ゴルフアソシエーション、通称「横屋」(6ホール、1196ヤード、パー20)を造った。日本で2番目のコースである。外国人のメンバーは両方でゴルフを楽しんだわけだ。横屋には日本人ゴルファーも現れゴルフの普及につながる。
この横屋に福井の自宅が隣接していたことで土間がクラブハウスに使われた。12歳の福井は以来キャディーをつとめゴルフになじんだ。横屋は10年で土地買収にあい閉鎖されるが、そのまま長い間放置されると福井は新しいコース作りに奔走するかたわら、コースを自由に使い隣の自宅に室内練習場を開いた。福井はゴルフの腕をあげコース管理、クラブ修理が出来た。越道はそんな福井のもとで助手をつとめた。彼の運命もまた、ゴルフで生きることになった。閉鎖された横屋は1922年、横屋のメンバーの有志が甲南ゴルフ倶楽部を立ち上げたとき、越道をプロとして迎えた。
不運が付きまとった競技人生
1926年、第1回の日本プロ選手権には6人のプロが出場、越道も福井とともに参加した。越道は前半の18ホールを終わって3位につけた。首位の福井、宮本に1打遅れの81の好スタート。午後、越道は13番で7をたたくがベストスコアの80で上がる。36ホール通算、161でホールアウトすると後続の福井が13番で7、さらに優勝確実とみられた首位の宮本が最終ホールで8の大たたき。これで3人が161で並んだ。
「さあ、プレーオフだ」初めての大会で優勝は3人プレーオフへ持ち込まれた。コース中が沸き返った。ところが、その頃、クラブハウスではルール問題が持ち上がっていた。午前の18番ホールのウオーターハザードで越道がとった処置に疑義が持たれた。審議の結果、越道には失格の裁定が下った。「越道プロは第1ラウンドの18番でウオーターハザードのルールを誤っていると後でわかり失格とされました」東京から参加した安田幸吉はその著書「ゴルフに生きる」でさらりと触れている。プレーオフは5日後、1日36ホールで行われた。その結果「プレーオフで宮本さんが72で7打差をもって(福井を下し)優勝です」―“安田レポート”は淡々と報告する。そこに越道への同情や慰めといった感情は微塵も触れられていない。
越道はその後トッププロの仲間入りを果たし順調にプロ生活を送る。その生涯の成績は日本プロ2位、日本オープン4位、関西オープン3位である。しかし、ついに1度も栄光に輝くことなく終わった。
その4年後の1930年の日本プロで生涯最高の2位に入った。大会は兵庫・宝塚GCでおこなわれ出場者は15人と3倍に増えた。しかしこの大会には第1人者の浅見緑蔵が兵役で欠場、宮本、安田はJGAの招いたアメリカのトッププロ、ビル・メルホーン、ボビー・クックシャンクとの模範試合で欠場とさみしい大会となった。 上位不在の大会で越道は優勝候補の筆頭であったことは間違いなかった。だが、優勝したのは宝塚をホームコースとする村木章で、なんと19打差の大差優勝であった。そして2位は、越道その人であった。 日本プロゴルフ史上、2位との19打差は優勝者のつけた最多差、現在に残る記録である。村木にはその快挙が栄光となって残った。だが、2位になりながら越道のことになると誰もがしんみりと言葉を呑んでしまう。そして口を開くというのである「あの人は本当に運がないなあ」-“歴史を飾る不運のレジェンドゴルファー”越道。ついて回る運命のいたずらに、ちょっぴり同情してしまう。