話は1926年の日本プロに飛ぶ。この時代、関西に5人、関東に2人の計7人のプロがおり初の日本プロには6人が出場した。この時ただ一人、出場しなかったのが中上であった。
なぜ?実は、中上はこのとき朝鮮の京城ゴルフ倶楽部にいた。1910年8月、朝鮮は日本に併合され日本の官民が進出、鉄道や観光事業が増え、それに伴いゴルフコース建設も盛んになった。京城GCは1919年、神戸GCのH.E.ドーントに設計を依頼、1921年6月1日にオープンしている。
ここに出てくるドーントは先に紹介した六甲の“クラチャン”その人である。神戸の貿易商はアジアの満州、朝鮮にもコネクションを持ち手広く活動していた。ここからは推測だが、ドーントと中上の関係はこうして一生続いていく。
1926年中上が朝鮮にいることが分かったことで中上の空白部分はずいぶんと埋めることができる。中上が日本プロ欠場の理由として「朝鮮に出張レッスンに行った云々」といった記述もある。が、もし仮に、京城GC創設の折り、所属したということになると話は別だ。1921年ならプロ第2号は越道ではなく中上であるからだ。こうした疑問は村上伝二にもあるが村上の項に後述する。
それはともかく朝鮮のゴルフは1909年にはこの京城GCに原型があった。それは原野に火を放ち枯草を焼き、ボールを打って、穴に入れて遊ぶ。今のコースからはとてもゴルフとは言えないものだったが、あった。グルームのような英国人は朝鮮にもいたのである。摂津茂和著の「日本ゴルフ60年史」(有明書房刊)にこうある「1900(明治33年)頃、朝鮮がまだ日本に合併される前、外人顧問であった英国人たちが、税関の構内に6ホールのコースを創っていたといわれる」―
英国人プレーヤー、ドーントにかわいがられた六甲の伝説の少年キャディー、中上は朝鮮を経て1924年には、関東の程ヶ谷の初代プロとなっている。さらにその翌1925年にはオープンしたばかりの京都CCの所属だった。さらに1927年には再び程ヶ谷で活躍1930年には埼玉の霞が関CCにも所属した。
中上の競技歴をたどる。第1回の日本プロはそうした理由で欠場した中上だったが、11月の「関西オープン」(茨木)で公式戦デビューすると福井覚治に8打離されたが、2位に入った。3位にはライバルの越道、4位は初代日本プロチャンピオン宮本だったから上々の滑り出しを見せた。そして1927年はそのキャリアと実績が一気に花開くのである。
第2回日本プロに初出場で優勝する
7月9日、前年に続いて大阪・茨木で第2回「日本プロ選手権」は8人が出場、36ホールで争われた。中上はアウトで41と荒れ、ハーフターンでは首位の宮本に3打離され7位と出遅れた。だが、インに入るとパープレーの35、通算76、宮本を1打逆転した。
午後のデッドヒートは激しさを増し27ホール終了時で宮本が1打、再び逆転。いよいよ最後の9ホールに入った。中上が39、宮本が40でタイとなり優勝争いは2年連続プレーオフへもつれ込んだ。前年より8打も良いスコアにプロの成長ぶりがうかがえた。初出場は中上、浅見、村木の3人。
プレーオフは翌10日優勝争いと3人による3位決定戦を各18ホール行った。優勝争いは一歩も引かぬ争い。ティーショットで宮本が力でねじ伏せにかかるのを中上が小技とパットで乗り切る慎重なプレーでかわした。中上81、宮本82だった。優勝した中上は200円を手にした。3位争いは福井が77のベストスコアを出して獲得した。
中上はこの年の5月、第1回「日本オープン」に初めて出場した。試合はアマの赤星六郎が圧倒的な強さを発揮、2位の浅見緑蔵に10打、3位宮本に11打差、中上は首位から24打差の6位とふるわなかった。 日本プロの優勝で自信をつけた中上が出場した11月の第2回「関西オープン」(11月3日、鳴尾GC)は史上最多の47人が出場した。1日36ホール。全長6030ヤード、パー72の本格的チャンピオンシップコースに5月の日本オープンを30人も上回る参加となった。
午前首位に立ったのは77の中上。ただ一人70台をマークすると上海から参加したG・ノリスに4打差、日本オープンチャンピオン・アマの赤星六郎に5打差をつけた。36ホールストロークプレーの短期決戦でこの差は大きく午後のアウトで中上とノリスは40の同スコアで変わらず、赤星は42をたたき、7打差にひらいた。勝負のインに入ると中上の手堅いゴルフは衰えず、ただ一人30台の39、通算156で2位のノリスに6打差をつけて初優勝を飾った。この大会は前年2位に次ぐ優勝で圧倒的な強さ。この年は日本オープン6位、日本プロ優勝に次ぎ2試合連続の優勝だった。3位には赤星六郎が入ったが、日本オープンの勢いはなくプロの成長と、中でも中上の強さが際立った大会となった。
中上はこの年33歳。翌28年には関西オープンに出場13位。その後、表舞台から姿を消したが、1931年の第1回「関東プロ選手権」に出場した時は埼玉・霞が関CCの所属プロで5位だった。若き日の少年キャディーはアジアをめぐり日本でもまた東西を流浪して存在感があった。