「ソニーオープン・イン・ハワイ」の歴史 日本の参加は1929年、今から87年前初めて日本のプロが二人、その門をたたいた。 武藤のコラム


 今年も日本選手7人が出場した米ツアー「ソニーオープン・イン・ハワイ」。1983年、青木功が最終18番ホールで118ヤードのショットを一発で叩き込む逆転イーグルで日本男子初の米ツアー優勝者となったことは記憶に新しい。夢の島ハワイで、ゴルファーにとってはまさに夢をかなえた会心のショットに世界中が熱狂、感動したものだ。だが、その快挙に倍する出来事が、さかのぼること50余年前の1929年のハワイアンオープンで花開いていた。

 ハワイには日系の移民も多く、戦時は日米開戦の火ぶたも切られるなどいろいろとあったが、1929年、二人の日本人プロが初めてハワイに遠征し米ツアーのトッププロと互角に渡り合ったのである。日本プロゴルフ伝説のレジェンド、宮本留吉と安田幸吉である。

 日本のトッププロたちが世界に飛び立つ第1関門、ハワイアンオープンの歴史的意味、価値を探った。

 「ハワイアンオープン」は1928年、ホノルル郊外のメンバーシップコース、ワイアラエカントリークラブを舞台に始まった。以来2016年まで同コースで89年の歴史を刻む伝統の大会だ。

 大会名称は1991年スポンサー名が冠となる流れの中、「ユナイテッドエアライン・ハワイアンオープン」、1999年に現在の「ソニーオープン・イン・ハワイ」と変わった。 ただ、米ツアーの公式メディアガイドには1965年からの記録しかない。初期のツアー・ブックには1928年からの優勝者とスコアが組み込まれていたが、なぜか「ハワイアンオープン」が隆盛となった1965年を公式的には第1回と認定している。どうしてそうなったか?歴史のないアメリカは歴史を大事にすることで知られるが、ハワイアンオープンのそれを37年も端折ってしまった真意を測りかねている。それはさておき、1929年である。

 ハワイアンオープンの隆盛、ことに日本人の歴史はその創成期にこそある。1928年の第1回大会が鳴り物入りで開催された翌1929年11月、第2回大会は本土からジーン・サラゼン、トミー・アーマーら全米屈指の名選手たちが大挙やってきて盛り上がった。当時は若手としてベン・ホーガンやバイロン・ネルソンを追い上げる成長株がずらりと名を連ねたのだ。 そして、驚いたことにその中に日本からの珍客も顔をそろえた。宮本留吉、安田幸吉が初めて参戦したのである。歴史的には日本初の海外遠征として記録をとどめる日本人プロの海外初遠征。大会は当時は11月に開催されていた。(今のように1、2月開催になったのは1970年から)

 2人は11月のはじめ横浜港から船で10日かけてハワイへ。宿舎はワイキキのロイヤル・ハワイアンホテル。「食事をとるといっても英語はわからない。メニューを見てもわからずこまった」(安田幸吉)と苦労の連続だったが、1日2ラウンド、2日間72ホールの競技が始まると宮本は第2ラウンドで1アンダー71をマーク、3位へ。そして最終日はホートン・スミス、クレイグ・ウッド(のちにともにマスターズに優勝したアメリカ人選手)の2人と最終組を回った。天気は大荒れとなり78、82と崩れ13位に終わったが、大健闘の世界デビュー戦だった。もう一人の安田も78,73で予選を突破すると最終日77,81と崩れながら17位。この活躍に地元は「小柄ながら2人のドライバーショットは時にアメリカ人より飛んで観客を驚かせた。いつも笑顔を絶やさずプレーする態度に暖かい拍手が送られた」と地元紙は立派な成績とともに人柄を絶賛した。

 その2か月前、ハワイ対日本のアマ対抗戦にやってきたハワイアマ・チームが日本アマ選手権に出場すると団長でプレイングキャプテンのハワイ州上院議員フランシス・ブラウンが日本アマチャンピオンに輝いた。ブラウンはハワイの“パイナップル王”と呼ばれ、アマゴルファーとしても一流だった。その返礼に地元開催のハワイアンオープンに日本選手を招待したのだ。

 日本ではアマの赤星四郎が日本オープンで優勝するなど(1927年)アマ優位、リーダーシップは財界のトップアマが握っていた。とはいえ少年キャディ上がりの宮本は27歳、安田24歳とようやくプロらしく逞しさを増していた。プロの大会も1926年に「日本プロ選手権」が初めて開かれ、2人は場数も踏んでいた。

 13位と17位。初遠征、不慣れなバミューダ芝、食事、時差ボケ。優勝したのはクレイグ・ウッド、繰り返すがのちのマスターズと全米オープンを制する強豪。ほかにサラゼンもいた。その中での好成績だ。アメリカも驚いたが、それ以上にびっくりしたのは日本ゴルフ界の先達たち。世界に追いつき、追い越せと色めき立ったのだった。

 日本のプロが初めてハワイアンオープンで大活躍したことは全米中に聞こえることとなった。「ジャパンのゴルフが元気だぞ」とウォルター・ヘーゲンが翌年、世界歴訪の途上、日本に立ち寄ると宮本、安田とエキシビションを行った。ヘーゲンは“キング”(王様)と呼ばれプロゴルファーの地位を確立した最初のプロ。そのヘーゲンに一目置かれた二人と、若手の浅見緑蔵を加えた3人は、1931年11月、西海岸のアメリカのウインターサーキットに参戦するのである。ハワイ遠征から数えて丸2年後、日本のプロたちは米本土に上陸するのである。日本のプロの米本土上陸、歴史上“第1次米遠征”と位置付けられる遠征である。あれから80余年、ハワイアンオープンは日本人プロの世界への玄関口となっている。日本の若手、ベテランも「ウエルカム」と迎え「グッドラック」と世界へ送り出してくれている。心して期待に応えなければならない。


武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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