日本最古のプロトーナメント・日本プロ -第1回チャンピオン23歳宮本留吉と6人のレジェンドたち-


 日本最古のプロトーナメント、第1回「日本プロゴルフ選手権」は1926年7月4日、大阪・茨木カンツリークラブで開幕、前半の18ホールを終わって福井覚治と宮本留吉が首位で折り返えす激戦。優勝争いはいよいよ残り18ホールに入った。第1回のチャンピオンに輝くのはだれか。伝説の初代プロゴルファー日本一を巡る激戦はいよいよ佳境、だが、展開は思わぬところに発展していった。

 午前の18ホールを終わり選手たちは約2時間の休憩の間に腹ごしらえをし、服装を整えると午後2時半にスタートした。雨に悩まされ、試合も荒れた。

 各選手ともようやく競技の雰囲気に慣れたのだろう、好スコアがマークされた。午後のアウトを福井は41、越道は40にまとめる。さらに横浜・根岸の関が39のベストスコアで通算124、宮本の1打差とがぜん、優勝争いは混戦となった。

 初日トップタイと好スタートを切ったホームコースの宮本はあわてたのか2番のパー4でOBをたたくトリプルボギーで崩れ、アウトを7オーバーの43、通算123とスコアを崩したからたまらない。福井、越道に2打差と逆転を許したのだ。

 第1ラウンド95の最下位と振るわなかった関東期待の安田は、本来の調子を戻し39と勢いづいたが、時すでに遅し。村上は最下位に沈み、チャンピオンへの希望はなくなった。優勝争いは上位4人に絞られた。

4人が争う大激戦、3人が首位タイに

 残り9ホール。福井が10番をバーディーとし越道をリードすると宮本も調子を上げた。10番をパーのあと、11番バーディーで逆転に向け動き出した。先に崩れたのは福井だった。それまで安定したショットを見せていたが、12、13番をボギーにする。越道も13番のパー5でダブルボギーをたたき通算14オーバー。ここで3人が首位に並ぶデッドヒートとなった。最終組の宮本はこの機を逃さなかった。13番でバーディーを奪い、13オーバーの単独トップへ。続く14番でボギーをたたくが17番まで14オーバーの首位で最終ホールへ向かうのだった。

 最初にホールアウトしたのは福井、その後、3ボギーをたたくなど40、午後を80の通算161。次いで越道が15オーバーの好スコアで福井に2打差をつけて最終18番、パー5にやってくるが、ショットを乱すとダブルボギーの7で福井と並ぶ17オーバーでホールアウトした。

 コース中が最終組の宮本を注目した。23歳の若武者。大会きってのロングヒッター。だが、さすがに硬くなった。ティーショットはうまく打ったが、セカンドドショットを乱し、リカバリーもならず、なんと、トリプルボギーの8をたたいた。かくして3人が17オーバー、161ストロークで並んだ。

 ここでお断りしなければならない。何しろ初めてのことでスコアの内容や選手の表情は想像するしかない。現代のトーナメントのようにドライバーの飛距離やパット数が即座に記録されたのは1970年代に入ってからだ。試合の内容が見えず。読者の苛立ちはわかるがここは我慢していただくしかない。

 大阪毎日新聞の記事を紹介する。今となっては貴重な初のゴルフ記事である。勝負のインの激戦をこう伝える。

 「福井は10番でバーディーを出したが、12、13番が悪い」「越道は3,4,4、とパーを連取したが、13番が7。ここにゲームはようやく混戦模様となってきた」「福井はインを40はさすがにステディーというべく、越道は14番以降、好調で70台のスコアかと思われたが18番が7で40、合計80で福井とタイ」「宮本は14番をボギーとしたが、後の3ホールをパー。ほとんど勝ちと見えたが、18番の第2打が悪く、これから崩れて8、ついに38、合計81で福井,越道と161で1位タイとする」(安田幸吉回想記「わが旅路のフェアウエイ」)

 大激戦であることはわかるが、やたらに7が多くプロの試合らしくない。アンダーパーに慣れたいま、アマ並みのスコアじゃないか、と不満もあろうが、1926年だ。ドライバーのヘッドが柿材、シャフトはヒッコリー、球はようやく糸巻のハスケルで飛距離が180から飛んで200ヤード。その上前回に触れたが、新設コースで芝ツキは悪かった。36ホールを17オーバー161ストロークは“時代を加味”してみるのが妥当だろう。

36ホールを終了した成績は別項の通り。

 圧巻は宮本だった。インの11,13番で2バーディー、14番でボギーをたたいたが、15番から3ホールをパーとし17番まで1アンダー、2位に3打差をつけたゴルフはコースを狂乱の渦に巻き込んだ。“さすがプロ”“ホームコースの誇り”の声が乱れ飛んだことは想像に難くない。だが、優勝を誰一人疑う者がいないその快挙は最終ホールの宮本のトリプルボギーで一瞬にして吹き飛んだ。宮本はまさかの8をたたき目前のタイトルを手放すのである。「第2打が悪く、これから崩れて8、ついに38、合計81で福井、越道とタイとなる」先に紹介のあとがきにあるが、どんな内容の最終18番だったのか、記者は詳細を記してないのは宮本の心中をおもんばかったのか、触れていない。

首位の越道ホールアウト後に失格、プレーオフ出場逃す

 宮本の不運もあり3人プレーオフへ。大会は一転、新たな状況を映し出す。6人でスタートした歴史的な競技は1日36ホールもかけて半分の3人に絞られただけ。贅沢な大会となったということだろう。ゴルフ好きには面白く、たまらない新たな展開を見せた。

 ところがその頃クラブハウスではある疑義が持ち上がっていたのであった。

 首位タイでホールアウトした越道の失格が決まったのである。午前の18番ホールのウオーターハザードの処置が「おかしいのではないか」との疑義が出されたのだ。そのホールのウオーターハザードの処置について、事実関係を調査した競技委員会はその処置の誤りを認めた。越道はその処置を誤り、ペナルティーを負荷されなければならなかったにもかかわらず、スコアを提出している。従ってスコア誤記による失格と推測されるが、詳細は不詳である。またも18番で、しかし、今度は失格者を出す舞台となった18番だった。越道は初のプロ競技で初の失格者。それもプレーオフ出場をいったんは決めながらの戦線離脱である。

プレーオフは後日、なんと再び36ホール

 プレーオフは福井覚治と宮本留吉の二人により5日後の7月10日、土曜日、再び茨木コースで36ホール、ストロークプレーで行うことに。ホールアウト後の競技委員会はてんてこ舞い。プレーオフは当初、翌6日に行う予定だったが、これだけの好試合である。観客の集まりやすい土曜日にしよう、ということになった。プレーオフこそゴルフの持つ最も面白い展開である。みんなでとことん楽しんでしまおう、という面白がりがある。36ホールストロークプレーは初競技へのこだわりである。当時、欧米のプレーオフはマッチプレー全盛の流れから36ホールで争うことが多かった。世界を意識した日本の先人たちの心意気がうれしい。

プレーオフは宮本が7打差勝利で初代チャンピオン

 10日のプレーオフは好天に恵まれた。勝負はいち早く決した。宮本153、福井160で宮本が優勝した。午前、宮本は「めったにない調子で72という、考えてもみなかった好スコアが出た」と自伝で語っているようにホームコースの利をいかんなく発揮した。福井は79で、この時点で大勢は決した。後半は2人とも81で結局午前の7打差そのままであった。

プレーオフ後に健闘を讃えあう、優勝の宮本留吉(左)と福井覚治(右)

プレーオフ後に健闘を讃えあう、優勝の宮本留吉(左)と福井覚治(右)

 33歳の福井、23歳の宮本。10歳違いの二人はかつて福井のもとへ宮本が修行のため弟子入りした師弟である。ただし弟子入りはわずか半年ほど。茨木がコース開場に向け準備するなかで、宮本はクラブ修理やキャディー管理などを習う目的で六甲のリゾートコース、甲南GC(元の横屋)に拠点を構える福井のもとへ“短期留学”したものだ。福井は10歳下の宮本をよくかわいがり面倒をみた。祝勝会は福井の自宅で開かれ宮本は福井の妻・ことの手料理を馳走になり「おめでとう、これからもしっかりやってください」と励まされ感激している。宮本は「福井さんは練習場のような短いコースでやっており広いコースでやる経験が少なく気の毒だった」と率直に語った。福井は「宮本君は僕の弟子のようなものだ。弟子が師匠に勝つのは恩返しだ」と握手した。宮本はその後も福井の工房に寝泊まりしクラブ制作も習った。史上に残る数々の記録とエピソードを刻んだ日本プロ選手権第1回大会。36ホールのプレーオフは長丁場のプレーオフ記録の日本記録である。福井と宮本の分厚い交流を象徴するような好ゲームだったといっていいだろう。

第1回日本プロ選手権の最終成績は次の通り

(6210ヤード、パー72=36 36)
宮本 留吉(茨木) 80(38 42) 81(43 38) =161
福井 覚治(舞子) 80(42 38) 81(41 40) =161
関  一雄(根岸) 85(42 43) 81(39 42) =166
安田 幸吉(東京) 95(49 46) 81(39 42) =176
村上 伝二(鳴尾) 89(46 43) 91(46 45) =180
失格 越道政吉(甲南) 81(41 40) 80(40 40) =161(参考記録)

 

 この試合、賞金はなし。宮本は純銀のカップを額にはめ込んだものをもらった。賞金は翌年の大会から出た。出場者6人は日本トーナメント史上もっとも少ない小規模大会。プロと限定する出場資格によるクローズな大会は今年、第83回大会を埼玉・太平洋クラブ江南コースで「日本プロゴルフ大会日清カップヌードル杯」として開催される。日本最古のプロトーナメントは数々の名勝負を刻み歴史をたどっている。

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

最新のカテゴリー記事