◆米男子プロゴルフツアー 海外メジャー第2戦・全米オープン最終日(18日、米ウィスコンシン州エリンヒルズ=7741ヤード、パー72)
【ミルウォーキー(米ウィスコンシン州)18日=浜田洋平】松山英樹(25)=LEXUS=がメジャーで日本男子最高タイの2位に入った。首位と6打差の14位で出て8バーディー、2ボギーのベストスコア66で回り通算12アンダー。16アンダーで優勝したブルックス・ケプカ(27)=米国=とは4打差ながら、1980年大会の青木功(74)=現日本ゴルフツアー機構会長=に並んだ。世界ランクも4位から2位に浮上し、5月にマークした日本人最高位を1つ更新。メジャー次戦の全英オープン(7月20~23日、ロイヤルバークデールGC)で初制覇を目指す。
松山の手が、世界一をかすめた。最終18番。静寂に包まれたグリーン上。自信を持って打ったバーディーパットは、1メートル先のカップに消えた。6打差14位から出て1打差2位にカムバック。ホールを取り囲む数千人の大観衆が声を上げ立ち上がった。「いいプレーができたので満足はしている」。13番を終えた首位のケプカは13アンダー。1打差に迫る驚異の粘りにスタンディングオベーションが起こった。
14番までに5つ伸ばし、2打差3位で迎えた15番で落として10アンダー。「2打差でずっと来ていた。あと2つ取って、12アンダーで上がったら面白い」。スコアボードを見る余裕もあった。ホール間の移動では手を差し出す複数のファンとタッチした。ビールを手に持つ観客に「MATSUI! MATSUZAKA!」と大声でいじられても冷静だった。15番でスロープレーの警告を出されたが、動じることなく16番で3・3メートルを沈めて伸ばし、18番も決めて12アンダー。過去116回の歴史で5人しかいなかった2桁アンダーで、日本人の大会最多アンダーパー記録(80年青木功・6アンダー)を大幅に更新した。
ホールアウト直後にケプカが3連続バーディー。約1時間後に日本男子初のメジャーVは消えたものの、初日82位から巻き返し80年大会の青木に並ぶ日本人最高の2位だ。テレビ解説で訪れたレジェンドは「37年前だからな。おまえたち(報道陣)生まれてないだろ? 古い話だけどそうやって話題になるのは、俺もやったんだなって思うよ」と再び浴びた脚光を喜んだ。「(ゴルフ界の象徴は)松山に継承されるのかな」と今後の成長に期待を込めた。
低迷する日本男子ツアーの人気回復を思い描く中、ある記事が目に留まった。無難に刻んでパーを取る守りの姿勢を批判するものだったが、違和感があった。「刻んで『逃げている』というのは違うと思う。勝つために自分のスタイルを崩さずにやることが一番ギャラリーが喜ぶ。それを貫くのがプロに大事なこと。海外で活躍するからこそ見てもらえる」。まずは勝つ―。この信念があるから地道な努力を続けられた。
昨年11月は団体戦で争う国・地域別対抗戦のW杯に出場。世界ランク日本人最上位だった松山は「日本のゴルフ界を変えよう」と8月に日本代表のパートナーとして同い年の石川遼を指名した。「遼以外、考えられなかった」。故障中にもかかわらず誘ったのは、石川の影響力を知っていたからだ。
86年に導入された世界ランクで自身の日本人歴代最高(3位)を更新し、賞金ランクとともに2位に浮上した。次の海外メジャーは7月の全英オープン。同大会特有の風などを体感するため、一時帰国した後の次戦は7月1週目の欧州ツアー・アイルランドオープンに参戦する。夢の実現が持ち越しとなった4日間の激闘直後に言った。「あんまり休まずに練習したいというのが、今の気持ち」。あと一歩まで迫った世界一は、すぐそこにある。
◆バルタスロールの死闘 1980年の全米オープン(ニュージャージー州バルタスロールGC)で青木功(当時37)とジャック・ニクラウス(同40)が4日間同組で演じたV争い。青木は首位のニクラウスに5打差で出た2日目に68をマークして2打差に接近。3日目は17、18番の連続バーディーで帝王に並び、日本人初のメジャー首位に立った。最終日は前半で2打のビハインドも最後まで食らいつき、後半はともに10、17、18番でバーディーと譲らず。青木は2打届かなかったが日本人史上最高の2位に入った。