2014年の暮れ、青木功のプロ50年を祝う会が催され、こもごも想うことがあった。
1964年、東京オリンピックが開催された年、青木はプロとなった。千葉・我孫子GCでキャディーのアルバイトをしたことからゴルフと出会い、研修生となり21歳でようやくプロテストに合格すると初優勝は7年後、28歳のときだった。プロとしてのキャリアは、スロースターターで、ハワイアンオープン優勝が41歳、世界のアオキの栄光はほとんどが40歳以降であった。
いま、石川遼ら若い選手たちは小学生になるかならないかでゴルフを始めると、石川も勝みなみも15歳でプロトーナメントに優勝してしまう。かつて熟練のスポーツと言われたゴルフは、経験やキャリアより若さとパワー、柔軟さより怖いもの知らずの世界へと変わった。ゴルフはミスのゲームといわれ、失敗に負けず、むしろミスを糧にうまくなっていくものだったが、いま失敗を恐れていてはだめなのだ。ボールは曲がらない、パットは打てば入る、そう思ってやる別のゲームに変わりつつある。
そんなことを考えていると大昔、プロが誕生した時の、若い日本のゴルフ界が思い起こされるのである。あの時代の活発な動きの、なんと勢いのあったことか。それはゴルフ好きの英国人が火をつけ、財界や少年キャディーを巻き込んで日本中に広がると、わずか20年ほどで今の隆盛をほうふつさせるまでに育った。
日本で初のプロゴルファーは、神戸・六甲の裾野に生まれ育った福井覚治である。福井は1920年、29歳でプロゴルファーとなった。
1892年10月生まれ。日本に初めてゴルフコースが出来た1901年には8歳。六甲コースまで歩いて1時間半ほどで行ける六甲の裾野の海岸の町、青木(おうぎ)村育ち。高等小学校の高学年になったとき六甲でキャディーをやっていた説がある。六甲のキャディーについては常時50人(日、祭日)が近隣の5つの村から集められ、福井の住んでいた村もその“供給源”であった。六甲では1905年から4年間、毎年クローズになる前に少年キャディー大会が行われ、最後の大会では5円という当時の会社員の1か月分の給料に当たる賞金が出されている。この賞金額は1926年日本プロ選手権が、第2回大会に初めて出した賞金と同額であった。アマ規定などない時代のジュニアの大会にプロと同等の賞金がでていたという、いまの時代に照らすと考えられないことだ。
かくしてこんな仮説を立てることができる。少年キャディーといっても立派なプロであり、少年キャディー大会こそ、日本のプロトーナメントの原点と位置づけてもいいのではないか。そんな背景をもとに歴史をたどると多くのことが見えやすい。
▼六甲のリゾート横屋は日本初のリンクスコース
六甲の少年キャディー大会は3回目までは横田留吉少年の3連勝だった。第4回大会はゲンキチが優勝、賞金5円を持っていった。2位は中上数一で4円、3位は越道政吉で3円を獲得した。その賞金総額を合わせると12円にもなる。注目したいのは中上と越道、二人は大会の常連で上位に顔を出し続けた。中上は福井覚治より2歳下で日本のプロ3号、越道は生年がわからないが、中上と同じ年くらい。長じて日本人プロ第2号となった。キャディー大会は1908年をもって行われなくなったのか、記録はない。話は前後するが、越道は後年、福井が正式にプロとなったあと実家に工房を作ると弟子入りして寄宿し、クラブ修理やコース管理などを茨木CCでプロとなる直前の宮本留吉とともに教えを受けた。
福井は六甲山のふもと、大阪湾に面する海っぺりの街、青木(おうぎ)で誕生した。父・藤太郎、母・もよ、男2人、女4人の次男。家は農家で庄屋をしていた。
1903年の秋ごろかと思われる。自宅土間の引き戸ががらりとあくと驚く間もなく外人たちが入ってくるなり「これはいい」「キッチンはここにしよう」などといいながら部屋の中まで上がりこんだ。その年の5月、オープンした六甲ゴルフ倶楽部のメンバー、ロビンソンらの外人ゴルファーたちだった。六甲はその前々年の1901年4ホールで仮オープンしたものの海抜800メートルの高地で11月には寒くてプレーできなくなる。そのため六甲きってのゴルフ好きのロビンソンらは冬でもプレーできるコースを、と候補地を探していた。六甲の開祖、グルームも「いいところが見つかればよろしかろう」と後押し、その計画は実行に移されたのだ。
コースは福井の生家に隣接してある外人居留地に6ホール、1196ヤード、ボギー20がバタバタとできた。当時、打数基準はパーではなくボギーで表された。父親はコース作りの先頭に立ち働き、コースができるとコース管理に従事した。クラブハウスは親戚の娘が担当した。
クラブ名、横屋ゴルフ・アソシエーション。通称、横屋コースは1904年、あっという間に出来上がった。日本で2番目のコースは大阪湾に接し英国風のリンクスコース。六甲のリゾートとしてほとんどが六甲のメンバーと重複したが、日本人もメンバーに名を連ね普及に役立った。
▼英人ロビンソンと福井の最強ペア
だが、横屋の歴史的な意義は、ここが福井覚治の運命を大きく変える拠点となり日本のゴルフ発展に寄与した点だ。覚治は休日にキャディーとして駆り出され外人ゴルファーのバッグを担いだ。1日30銭もらえ夏休みは毎日やると月に6円にもなった。覚治12歳。少年キャディーは5,6年生以上と限られていた。それ以下では学校が認めなかった。家がクラブハウスという環境が覚治を他の少年よりはるかに深いゴルフとの関係を作っていった。覚治はロビンソンの専属キャディーとなり、クラブをもらいスイングを教わるとめきめき腕を上げた。先生だったロビンソンをすぐに追い越し他のゴルファーからレッスンを頼まれた。10年が経ち1913年、コースは石油会社に買収され閉鎖される。しかし、残ったコースはそのまま放置され、まるで覚治の専用コースのおもむき。リンクスはありのままに残され誰でも無料で自由に使えた。クラブハウスの自宅とコースはティーグラウンドもバンカーもそのままに10年後の1922年、甲南ゴルフ倶楽部ができるまで放置された。
横屋を失ったメンバーは、旧鳴尾競馬場跡地に鳴尾リンクスを立ち上げるが5年で閉鎖、次に舞子ゴルフ倶楽部を創設した。覚治は鳴尾、舞子の立ち上げにはロビンソンをよく補佐しコース設計、造成、管理、キャディー教育、そしてレッスンとよく働いた。舞子が立ち上がった1920年、29歳の時、プロ兼キャディーマスターとなった。
しかし、福井の真骨頂が発揮されたのはこの後である。甲南GCの自宅クラブハウスに室内練習場を造った。サンドグリーンを芝グリーンに変え、その横にキャディー小屋をつけ工房と室内練習場をしつらえた。舞子で働き、夜はクラブ修理や制作、レンジでのレッスンと多忙を極めた。
ロビンソンについて触れておかねばならない。
ウイリアム・ジョン・ロビンソンは豪州生まれの英国人貿易商。グルームの6歳下。六甲のコース立ち上げを応援した一人だ。根っからのゴルフ好きは、冬期にプレーできない六甲を前に「なんとか1年中、ゴルフができないか」と横屋を造った。会員を集めクラブ組織としたのはもちろんだが、コース作りにはかなりの額の私費を投入している。土地問題で横屋が解散すると、先頭に立って鳴尾を立ち上げ、鳴尾が行き詰まると舞子、そして甲南の創立にもかかわった。そのゴルフにかける熱意はすさまじいばかり。「コースを造り、プレーをする。球を打てばみんなが集まる。ゴルフの面白さを知ればコースは自然に増えてゴルファーも増える」まだコースのない時代にボールを打つ快感を訴えるため連日プレーをし、コースを造り続けた。この姿勢は、増え始めた日本人ゴルファーを元気づけた。福井はその中で最も身近に熱意を感じ取り影響を受けた。二人は良きパートナーとなって草創期の日本でリーダーシップを握った。