日本初のオープン競技 関西オープンはトップアマに厳しくプロに甘かった


 日本で初めて行われたオープン競技、関西オープンはプロ第1号のベテラン福井覚治が、六甲の少年キャディーからプロとなった中上数一を破って優勝した。36ホールストロークプレーを1日で争うタフな試合は、福井が午前72のパープレー、午後は82をたたいたが、2位に8打差の楽勝だった。3位は越道政吉、4位はアマの伊地知虎彦、5位にはプロの宮本留吉とトップ5はプロ4人が占め、アマはひとりだけに終わった。

 いまでこそプロの方がアマより強いのはあたりまえだが、当時はちがった。アマが勝つのが当たり前の時代だった。ゴルフを始めたのもアマならコースを造りゴルフ倶楽部を運営し、プロを育てたのもアマ。少年キャディーを“小僧”と呼んでかわいがり、クラブやボールを与えて「あんがいうまいじゃないか」と“上目線”。しかし、愛情たっぷりだった。そのアマたちの惨敗はアマには悔しくおどろきだったが、うれしくもあったのだ。

 初めにアマありき。ゴルフにかかわらずスポーツを職業とするプロの誕生は、好きこそものの上手なれ。技術に優れたものが他を圧倒する技や秀でた戦術などで自他ともに認められた時に生まれた。趣味は専業となり人を指導し、イベントで見せ、その見返りに報酬を得た。ゴルフでその制度が生まれたのは第1回の全英オープンがはじまった1860年といわれているが、単に賞金を得たからプロだったわけではない。英国ではゴルフ倶楽部のメンバーがアマ。コースの従業員やクラブやボールつくりの職人の中から技術に優れたものが賞金マッチや大会で賞金を手にするのをプロといった。ゴルフ倶楽部のメンバーだけが参加できる試合に出るためにはメンバーにならなければならず、階級制度の厳しい英国ではプロはメンバーにはなれなかった。その証拠に1860年の全英オープンはプロのみの参加で行われたといわれている。

 英国人が起こした日本のゴルフは英国の伝統の上に成り立つ。ゴルフ倶楽部のアマが主導で次々とコースが出来るとキャディー上りの少年がクラブ修理やコース管理を覚え、ゴルフを覚えてプロとなった。

初の日本プロ選手権はプロ教育の場として行われた

 関西オープンの半年前に同じ茨木CCで行なわれた初の日本プロ選手権(当時は全国プロフェッショナル争奪戦)はそうした伝統を踏まえて行われた。アマの指導的な意向が全面に押し出された教育的な大会だった。

 大会は36ホールを戦いトップタイとなると5日後のプレーオフは36ホールの長丁場。まだ開場して半年も経っていないコースは芝が生えそろわず今ならプリファードライ・ルールを適用するとこだろが、「プロだからあるがままでやれ」とあくまでゴルフのタフさを追求した。

 プリファードライ・ルールとは雨などの悪コンデションで、コース状態が悪いとき、ピックアップ・アンド・クリーン(球を拾いあげ泥などをふき取りライの良いところへプレースする)ルールを適用することだ。そんな悪条件では競技委員会は、競技のスムースな進行に配慮していまなら当たり前の処置である。当時のあまりよくないコース状況では普段のラウンドは“フェアウエー6インチ“が当たり前。それが”プロだからそのまま”といわれ悪戦苦闘した。あげくプロたちが大たたきすると「未熟だ」「練習がたりない」と叱咤がとんだ。いい、悪いではなく誰もが必死にゴルフを育てようと一生懸命だったのだ。

 初の関西オープンは、そんな背景を加味してみないと理解できないだろう。アマとプロの対決?いや、アマはあくまでプロ教育をめざしていた。アマに勝るとも劣らないプロの実力は侮りがたいが、よもやまけるとは予想もしなかったのではないか。だが、競技はプロの圧勝。日本プロの経験が生き、大会をきっかけにプロの力が予測以上のスピードで上乗せされていた。大会は、やはり番狂わせだったと仮定したうえで見るのが当たっているとみたい。

大会の成績は以下のとおり。(※印はアマ)
▽関西オープン選手権 1926(大正15)11月7日
                                        茨木、参加32(うちアマ25)

福井覚治(舞子)7282=154
中上数一(京都)8181=162
越道政吉(甲南)8183=163
※伊地知虎彦(程ヶ谷)9188=170
 宮本留吉(茨木)8684=170
※伊藤長蔵(舞子)8390=173
※小寺酉二(舞子)8590=175
※ハリー・クレーン(鳴尾)8888=176
※石角武夫(舞子)9087=177
10※室谷藤七(舞子)8692=178
11※松本虎吉(不明)8794=181
12※南郷三郎(程ヶ谷)9291=183
※小寺敬一(不明)10086=186
14※野田吉兵衛(舞子)9792=189
15※加賀正太郎(不明)94108=202

 アマチュア選手に注目してほしい。
4位の伊地知は1921,23年日本アマ7位、この年、神奈川・程ヶ谷で行われた日本アマ4位。所属は程ヶ谷から出場しているが、関西のコースにも所属、競技会の草分けである。1906年創立の日本アマは日本で最も古い競技会、その常連のひとりである。

 6位の伊藤長蔵は1922年日本で初のゴルフ雑誌(阪神ゴルフ、のちのゴルフ・ドム)を発刊、日本ゴルフ協会の創設にも参画した。1925年、渡英、ロンドンでかねてから準備していた英文のゴルフレッスン書を出版した。

 7位の小寺は米プリンストン大出身、1922年慶大ゴルフ部の創部に深くかかわり慶大ゴルフ倶楽部が神戸・六甲で開催したクラブ選手権の第2回大会チャンピオン。後年はJGA常務理事。日本学生ゴルフ連盟の創立に寄与した。

 8位のクレーンは鳴尾のクレーン3兄弟の長男、日本アマの常連。

 12位の南郷は1924年創立の舞子CCの創立者。先頭に立って初のオープン競技に一党を引き連れて参戦した。のちにJGAの初代チェアマン。他の選手もいずれも日本アマの常連たち。この大会の2か月前の日本アマ(、9月24日程ヶ谷)は赤星四郎、六郎が兄弟でプレーオフを戦いゴルフ界は大興奮、兄の四郎が勝った。ディフェンディングチャンピオンの川崎肇の3連覇を阻んだ。関西オープンには六郎は出場しなかったが、後は全員顔をそろえた。

1927年、初の日本オープン開催に向けた関西オープン

 実はこのときアマたちには大きな夢、歴史的な計画を抱えていた。翌1927年の日本オープン選手権の開催である。

 この年10月、関西の6クラブ、茨木、舞子、鳴尾、六甲、甲南、宝塚により関西ゴルフ・ユニオン(KGU)が発足した。5月の日本プロ後援をきっかけに組織つくりを進めた。

 一方、関東は9月、関東きっての本格的チャンピオンコース程ヶ谷で日本アマを開催した。参加18人。大会は川崎肇の3連覇がかかり注目されたが、アメリカから帰国した赤星四郎、六郎兄弟が強く2人そろって、川崎を1打しのぐトップタイでプレーオフにもつれ込み兄の四郎が優勝する。36ホールを17オーバー161だった。

 この大会には大谷光明、野村駿吉ら東京、程ヶ谷のリーダーはじめ関西の伊藤長蔵らも参加した。日本オープン開催のことは現実味を加えた。歴史をめくると大会は1927年5月、程ヶ谷で歴史的な第1回大会が開かれるが、その決定は、すでにこの年に決まっていたと推測していいだろう。歴史的な第1回の日本オープンについては次回、詳しく紹介する。

 いまは第1回の関西オープンである。ここまでできる限りのデータを掘り起こして記述したが、謎が残る。参加32人の大人数の参加者がいるが、成績は15人しか名前がないことである。たとえばプロは7人がエントリーしているのに、5人が成績表にあるだけだ。この疑問は摂津茂和編の「日本ゴルフ60年史」によって解けた。

 「第1回関西オープン選手権競技が茨木コースで行われた。これは日本における最初のオープン競技であったため、多大の反響を呼んで、東京からも同年のアマチャンピオンの赤星四郎氏をはじめ、前チャンピオンの川崎肇氏、大谷光明氏など一流のアマチュアが参加した」とある。赤星四郎も川崎も出場していたのだ。

 さらに、ベスト5には伊地知しか入ってないことには触れたが、「赤星四郎、川崎肇、大谷光明、などの諸氏は前半の18ホールで、すでに1位と20ポイント以上の差をもって失格となった」とあるのには驚いた。これで謎は解けたのである。36ホールの前半18ホールを終わって首位と20打以上離れると午後のラウンドの出場資格を失う。午前が予選、午後決勝ラウンドだったのだ。大会はトップアマにとって厳しい結果となったのである。そしてあと二人のプロが誰であったかは、あらゆる手を尽くしたが、わからない。すべて遠い歴史のかなたに溶け込んで探りようがない。

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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