20世紀のスタートと日本初ゴルフコース誕生 —日本初のコース誕生と英国人グルーム


 兵庫・六甲山上、海抜2300尺(約690メートル)の笹やぶがゴルフコースに生まれ変わったのは1901年だった。英国人の貿易商、アーサー・ヘスケス・グルームが仲間たちと作った日本初のゴルフコースは、はじめ4ホールだけ。グリーンは砂を固めたサンドグリーンだった。1903年、9ホールに拡張したところで、倶楽部を設立、神戸ゴルフ倶楽部(神戸GC)と名付けた。ゴルフコースの名称はクラブ名である。だが、所在地名をつけるのが慣例でゴルファーたちは六甲コース、あるいはただ、六甲と呼ぶことが多い。同年(1903)開場式典には131人の会員の中に7人の日本人が加わり神戸知事、市長も参列、華々しく行った。1905年、コースは18ホール、3576ヤード、ボギー78となった。いま、ホールの基準打数をパーというが、当時はボギーで表した。
 そうした慣例や歴史の変遷はおいおい詳述したい。今は日本初のコースだ。このコースをもって日本のゴルフがスタートを切った1901年は、20世紀の初年、なんともドラマチックな設定で象徴的である。歴史はちょっと面白がりすぎ?ともあれ、最初のボールの放たれ方としてはナイスショットであろう。

 ▽日本人と結婚 子だくさんの親日家グルーム
 グルームは1846年9月22日ロンドンのセイモア生まれ。
兄のフランクが長崎にあったグローバー商会の経営に参画していた関係で兄と一緒に仕事をしながらシンガポールから香港、上海を経て1868(明治元)年4月に来日した。神戸に上陸すると、神戸グローバー商会に勤務、時に21歳。
 グルームは翌年、22歳で大阪・玉造の士族の娘18歳の日本人、宮崎直子と結婚する。15人の子に恵まれた。そのうち成長したのは9人。その末娘の岸りうさんの著書「A.H.グルーム小伝」が二人の結婚について伝えている。
 「神戸・三宮で最初に住み着いた善照寺の和尚さんがその仲を取り持ったとのことですが、明治初年の頃イギリスの厳しい宗派(キリスト教)の父と士族の娘であった母が結婚したのですから、お互いによほど勇気があったし、よほどの決心がいったのだろうと思います。(中略)父は日本をとっても愛しました。大勢の子供の教育方(法)も外人としては大変変わっておりました。女の子は絶対外人(日本人以外)と結婚は許さないといい、外国語(英語)の勉強は絶対に禁じました。英語の本を読んでいるのを見つけると”日本人ノオ嫁サンニ英語ハイリマセン”と叱られました」。

 ▽茶、生糸の貿易商 六甲山開発の祖
 1871年、グルームは独立し茶の貿易会社を創立する。京都の山城、奈良の丹波や静岡など各地の茶の名産地から茶葉を仕入れ、神戸で製茶し輸出した。事業は大成功を遂げた。当時の神戸には外人経営の製茶工場は10以上ありグルームの工場には煎じ窯が800はあったという大規模な工場だった。輸出品は生糸も扱い横浜にも進出している。話は前後するが、神戸と横浜の両方で暮らしたグルームの、横浜の家は現在のフェリス女子学院となっている。そして、ゴルフコースを造ることになったいきさつだ。

 子宝に恵まれ仕事も順調なグルームは六甲にリゾートとして目をつけ別荘を建てる。グルームははじめ狩猟のため六甲に登ったが、その眺望の良さ、清澄な空気に魅入られ、第1号の別荘を建てると、英国人の友人たちが次々と別荘を建て、やがて日本人も住み付き登山者が別荘の道を通った。後年、ケーブルカーが敷かれ観光地としても発展する六甲山。グルームが六甲開発の祖としてその功績をたたえられ「六甲開発の碑」が山頂に立てられたのが、1912(明治45)年,死の6年前のことである。ゴルフコースを造ったきっかけは、その14,5年前のことであった。

 英国人が3人集まるとゴルフコースができる、は本当だった。
夏のある日、グルームの別荘に友人のアダムソン、ソニクラフト、ミルワードが集まってお茶の時間を楽しんだ。「香港でゴルフが盛んらしいよ」と誰かがいった。「そういえば久しくゴルフやってないねえ」スコットランドはセントアンドリュース生まれのアダムソンがため息をついた「日本でもコースがあってもいいのにね」とゴルフ好きのミルワード。「9ホールでいいからほしい」「いや3ホールでいいよ」立ち上がってスイングをする、それじゃダメさとレッスンがはじまる。

 「それならここにコースをつくろうじゃないか」
 グルームがおもむろにいった。ロンドン近郊に育ったグルームだが、ゴルフはやらなかった。だが、遠く日本で仕事をする若い友人たちの郷愁の想いは理解できた。日本人の妻と子供たちに囲まれ平和な日々だけに故郷への想いも強かったにちがいない。
 別荘の周辺の土地は借地だが、十分広さはあった。神戸在住の外国人によびかけるとみんな乗り気。さっそく造成にかかった。近隣の村々から集められた人夫に交じってグルームはスコップやクワをふるった。“言い出しっぺ”の3人も手伝った。1901年の初夏、4ホールのコースが見事出来上がった。

 ▽4年後、早くも少年キャディー競技会行われる
 時は移る。1905年の秋。その日、六甲はいつもと違う雰囲気。コースのあちこちに子供の声が響き渡った。時折聞こえる大人の声は英語交じり、婦人たちの歓声も聞こえる。見るとプレーをしているのは筒袖、脚絆に草鞋をはいた子供たちだ。それを見守るニッカボッカの外人と長いスカートの婦人たち。日本で初めて開かれた少年キャディー競技会だった。
 オープンして5年.近隣の村々から集められた8歳から10歳の少年キャディーたちはいっぱしのゴルファーに成長していた。冬になると雪が降りクローズされる秋。グルームは少年たちの慰労のため初めて競技会を催した。弁当や菓子がふるまわれこの日ばかりは主役は少年たち。日頃、バッグを担ぐ傍ら手製のクラブでボールを打った手並みはなかなかのものだった。10ホールのピックアップホールを石屋の横田留吉が50で回った。ほとんどがボギー3(現在のパー)のショートホールとはいえクラブはヒッコリー、ボールはガッタパーチャ、大人のロングヒッターで160ヤードという時代、素晴らしいスコアだった。
 六甲ではメンバーによるクラブ選手権やドライバーコンテストなど数々の競技会が開かれ、そのほとんどに「日本初」の“冠”がつく。何をやっても歴史的な記録となっているが、この少年キャディー競技はまたかくべつだ。なぜなら、この大会は以後3年にわたりつづけられると150人を越えるジュニアゴルファーが誕生するのである。そしてこの中からのちに草創期を飾るプロゴルファーも生まれるのである。

 ゴルフには全くの素人の英国人グルームは、日本にやってくると縁あってゴルフと深くかかわり、ゴルフを日本中に蔓延させていった。少年たちと日本人初の女性ゴルファーの交流、プロゴルファーとなって羽ばたく少年たち、次々と誕生する第2、第3のコースの数々、、、。日本にゴルフが生まれて110余年。その創生期を丹念に追ってみようと思っている。
 この項の最後に恩人グルームのエピソードを紹介する。
 グルームは、日本にくるまでゴルフをやらなかったということである。ロンドン生まれのイングランド人でゴルフ自体は知っていたというが、多趣味で「水泳、ボート、登山、クリケット、狩猟、そして絵を描き芝居をした」(岸りう)という趣味人、さすがにゴルフまで手が回らなかったというのが本当のようだ。その彼がその手にクラブを握ってプレーしたのは自らコースを造り上げてのちのことであった。なんと素晴らしいことであろう。たまらなくうれしいエピソードである。

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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