【松井功のグリーン放談】島村宜伸・日本プロスポーツ協会会長


 政財界に幅広い人脈を持つ松井功・日本プロゴルフ協会相談役(73)=スポーツ報知評論家=が、政財界のトップランナーにゴルフや経営について聞く「松井功のグリーン放談」。2014年最後となる第11回のゲストは、農水大臣や文部大臣を歴任した島村宜伸・日本プロスポーツ協会会長(80)。衆院議員時代、気骨ある発言で知られた島村氏は、中曽根康弘元総理ら大物政治家を「弟子」に持つ、政界きってのゴルファーだった。(構成・鈴木 憲夫)

 松井「島村先生とはもう長いお付き合いをしていただいておりますが、この度は、日本プロゴルフ殿堂の理事に入っていただき、ありがとうございました」

 島村「お声をかけていただいて光栄です」

 松井「先生の腕前は政界では有名ですが、ゴルフを始めたのは、会社に入ってからですか」

 島村「ハイ。日石には全日本級の野球選手がたくさんいたでしょう? 彼らは野球を辞めた後、ほとんどがゴルフを始めました。ようし、負けるもんかと。私の場合は『ロイド・マグナムのゴルフ』など、3、4分のテレビ番組が教材代わりで。柏GCに入って、最終的には軽井沢でも4までいきました」

 松井「それはすごい。先生は中曽根康弘さんの秘書官でしたね。お上手だったんですか?」

 島村「初めは下手でした」

 松井「自己流?」

 島村「まさにそう。ところがみんな何も言わない。私ははっきり申し上げたんです。先生のはゴルフとは言いません。せいぜいゴロフですよ、と(笑い)。あの背の高い方が、右手がシャフトにかかるぐらい短く握って、ティーをこんな高くして、ぴょーんって器用に打つんです。得意気に『どうだ』って聞くから『それは7番アイアンの打球です』って(笑い)」

 松井「また随分、はっきり言いましたね」

 島村「『どうやったらいいんだ』とおっしゃるから、『ここに草が3本生えてますね。これをフィニッシュまで絶対に3本に見えるように、ゆっくり振ってください』と申し上げた」

 松井「頭を動かすなということですね」

 島村「朝霞の米軍基地のコースで、(素振りを)数十回やりましたかねえ。いつの間にか米兵が何十人も並んで見てる。(中曽根さんは)人気ありましたから。頃はよし。ティーアップして、前にマーカーを置いて。『この方向へゆっくり振ってください』。いざ打ったら、スターン!と、周りがびっくりするようなすごい球を打たれた。見てた米兵たちはやんやの大拍手ですよ。とっさにあの方がおっしゃったセリフを今でも忘れません。『島村君、これが僕の本来の当たりだ!』って」

 松井「ハーハッハ。よく言いますね」

 島村「その後、どんどん上達されて、2か月後の党のコンペで優勝したんです。ハンデ28で46、46ですから文句のない優勝でした。ばかにしてたみんなは驚いた。表彰式で中曽根さんが『実は島村君という名伯楽を得て』と説明をされた。お陰ですっかり有名になっちゃいました(笑い)」

 松井「先生は日本プロスポーツ協会の会長もなさってますが、今年は日本の選手が世界に飛躍した年でしたね」

 島村「松井さんには協会の副会長のあと、監事もお願いして。こういう能力のある人を逃しちゃいけないから(笑い)」

 松井「錦織君はすごい。私はテニスで、世界のトップクラスの選手が出てくるとは思いませんでした。松山英樹もメモリアルを勝った」

 島村「松山君の課題は言葉かもしれません。麻生太郎氏はスタンフォードに留学して、優等生の表彰を受ける寸前だったんです。たまたま、マッカーサーの国葬に吉田茂さんが見えて、かわいい孫にごちそうしてやろうとホテルのレストランに呼んだ。そこで麻生氏が慣れた米語でパパッとやったら、吉田さんがナプキン叩きつけて激怒した。『お前はこんな下品な言葉を勉強するためにアメリカに来てるのか。許せない』と、すぐに呼び戻された。彼はロンドン大学の大学院に入り直したんですが、今日になると、これがプラスになっているんですね。オックスフォードで講演できるぐらいのクイーンズイングリッシュですから」

 松井「2020年、東京にオリンピックが来ます」

 島村「オリンピックの感動は理屈を超えますからね。日本人は良いことに慣れすぎてますけど、反面、感動を生かせる民族でもあると思います。我々も応援団として、しっかりサポートしないといけませんね」

 松井「安倍総理はゴルフ、お好きですよね」

 島村「御一緒したことはないんですが、いいことです。ゴルフは政治家の健康維持には最高ですから」

 松井「なぜですか」

 島村「まずストレス解消。次に、熟睡できる」

 松井「なるほど。歩くから」

 島村「政治家は意外と寝る時間が少ないんです。ただ、今の人たちは歩かな過ぎですよ。カートがないならゴルフ嫌だなんて、ならやめたほうがいいですよ(笑い)」

 島村「ところで今、世界で一番、平均年齢が高いのは日本です。総理府の統計でも45・6歳。つまり、働き手が少ないということですよ。これからは高齢者が第一線で働き続けなきゃいけない。そのためには体力。若いうちからスポーツで体を鍛えることが大事です。余計なおせっかいかもしれないが、我々より10歳ぐらい若い連中が、年だ年だと騒いでいる。冗談じゃない、君たちはまだ古希だろう。昔は珍しかったかもしれないが、今は珍しくない」

 松井「私はゴルフやって歩いてるから、普通の73歳よりも10歳は若いですよ。筋肉量が違うと言われます」

 島村「筋肉の貯金ですよ。若いころの運動は」
「辛くない」で2杯お飲みに 松井「先生は学習院で天皇陛下のご学友でしたが、陛下はゴルフをなさったんですか」

 島村「ご学友というのは、通常、幼少時からご一緒だった人のことを言うのでしょうが、私は大学入学時に、当時の安倍能成院長から『下情に通じた人間も必要だ』と、特に指名されたのがきっかけなんです」

 松井「なるほど」

 島村「昭和天皇はお若いころ、ゴルフをおやりになりましたが、今上天皇はなさいません。『お体のためにもなさるべきじゃないですか』と申し上げたことがあるんですが、陛下は『日本国は土地に余裕がない。私がやることについてはどうしても納得できないから、ゴルフはやりません』と。この話だけは譲られなかったですね」

 松井「陛下に国産ウイスキーをお勧めになったことがあるそうですね」

 島村「あるとき、美智子妃殿下(当時)が外国産の安いウイスキーを飲んでおられた。侍従に聞いたら、皇太子殿下がウイスキーは辛いとお好みにならないので、妃殿下はご遠慮なさって有り合わせのものを飲んでおられると。それで殿下に『日本人が造ったもので、国際的にも立派に通用する素晴らしいものができています。奨励のためにぜひ、召し上がってください』と申し上げたら、その時は生返事でした。そこでサントリーの佐治さん(敬三氏、元会長)にお電話して、『ザ・ウイスキー』を頂戴して、殿下にお勧めした。『じゃあ水割りを作って』とおっしゃるから『それはダメです。本物は割らずに飲む。それが造った人への礼儀です』と」

 松井「はっきり言いましたね(笑い)」

 島村「渋々、お飲みになったら『あっ、辛くない』。結局、2杯お飲みになった。義理じゃ飲めないですよ。大きめのグラスですから。遅れて妃殿下がおいでになった。今、殿ウイスキーをお飲みになりましたよって申し上げたら、『まさか』とおっしゃいました(笑い)。殿下が『美智子、これはおいしいよ。辛くない。僕は2杯飲んだ』って。妃殿下はお好きですから、すいーっと飲まれて『あら、おいしい』って(笑い)。その後、すぐまたお呼ばれした際に、まだ、半分以上残ってるはずだと思って『あれ、どうなさいましたか?』って伺ったら、『ナルに見つかったら、おいしい、おいしいってみんな飲まれちゃった』って。(浩宮様)お強いんですよね。国産ウイスキーを造ってる人たちにどれだけ励みになったか分からないですよ」

 ◆島村 宜伸(しまむら・よしのぶ)1934年3月27日、東京都生まれ。80歳。56年、学習院大学政治経済学部政治学科卒。同年、日本石油(現JX日鉱日石エネルギー)入社。70年、中曽根康弘衆院議員公設秘書。76年、父・一郎氏の引退に伴い、旧東京10区から立候補し初当選。95年、村山改造内閣で文部大臣。97年、第2次橋本改造内閣で農林水産大臣、2004年、第2次小泉内閣で農水大臣。09年政界を引退。衆院議員時代は靖国神社に参拝する国会議員の会会長を務めるなど、保守色が強く、また、05年には解散に反対して小泉総理から罷免されるなど、気骨ある発言、振る舞いで知られた。現在は日本プロスポーツ協会会長、NPO法人日中環境協会会長、日本プロゴルフ殿堂理事など。

 ◆松井 功(まつい・いさお)1941年11月2日、神戸市生まれ。73歳。富士ゼロックス専属。用具契約はキャロウェイ。18歳で林由郎プロに師事し、66年プロテストにトップ合格。翌年プロデビュー。主な戦績は72年静岡オープン2位、79年全日空札幌オープン4位、80年ミズノゴルフトーナメント6位など。91年よりシニアツアーに参戦。2002年、日本プロゴルフ協会理事就任。広報委員長を経て、05年会長に就任。2期務めた後、13年から相談役。一般財団法人日本プロゴルフ殿堂理事長、NPO法人日本ジュニアゴルファー育成協議会(JGC)理事長、阿山カンツリー倶楽部理事長、烏山城カントリークラブ会長。

松井 功(まつい・いさお)
1941年11月2日、神戸市生まれ。72歳。富士ゼロックス専属。用具契約はキャロウェイ。18歳で林由郎プロに師事し、66年プロテストにトップ合格。翌年、プロデビュー。主な戦歴は72年静岡オープン2位、79年全日空札幌オープン4位、80年ミズノゴルフトーナメント6位など。91年よりシニアツアーに参戦。2002年、日本プロゴルフ協会理事就任、広報委員長を経て、05年会長に就任。2期務めた後、13年から相談役。一般財団法人日本プロゴルフ殿堂理事長、NPO法人日本ジュニアゴルファー育成協議会(JGC)理事長、阿山カンツリー倶楽部理事長。烏山城カントリークラブ会長。

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