「KSB瀬戸内海オープン」といえば、杉並学院高校1年生だった石川遼が鮮烈な優勝を飾った大会として記憶に残っているが、実はこの大会の草創期には、前代未聞の出来事が起きていたことで有名なのだ。まだ、ツアー競技になる前の2日間競技だった1983年3月のこと。最終日の優勝争いは同スコアで並んだ2選手によるプレーオフに持ち込まれた。しかし、ナント! その一方の選手がコースからいなくなり、不戦勝で優勝者が決まってしまったのだ。正に〝幻のプレーオフ〟となった。
この大会の前身は「KSB香川オープン」といい、1981年に始まった大会。今では考えられないが、優勝賞金は100万円と少額だった。そんな大会だったにも関わらず、本格シーズンに突入する前に〝実戦の場〟を求めて、デビューしたばかりの中島常幸や倉本昌弘ら若手が出場した。そんな中〝主人公〟になったのは、ベテランの安田春雄だった。
最終日となった2日目に安田は、最終組から数えて7組も前でラウンドしていた。首位に立っていた十亀賢二からは6打差の21位と出遅れ、「優勝」などとは無縁のポジションでのプレーだった。しかも、舞台となった香川県の志度カントリークラブは十亀にとってはホームコースにあたり、安田も逆転Vなどは考えておらず「少しでも上位に食い込めれば、それでいい」程度のモチベーションだった。それでも、日本を代表する実力者だけに、持ち前の粘り強さを発揮して17番までにスコアを6つも縮めた。だが、最終18番ホールでOBを出して痛恨のダブルボギー。これが精神的な〝決定打〟となって「もう勝ち目は無い…」と憤然としたまま、さっさとコースから引き上げてしまった。
この安田のホールアウト時点で、十亀は14番を終え、安田との差は4ストロークもあった。従って1、2ホールをボギーにしたところで、どうということはなかった。が、しかし、初優勝を狙った十亀は、その緊張感からだろうか、続く15番ホールで3パットのボギーを叩くと、17番ではダブルボギー。そして、最終18番でも、まさかのボギーを叩いて、通算4アンダーまでスコアを落としてしまった。つまり、安田と並んでしまったのだ。
これにより、優勝争いは〝熟練〟安田と〝新鋭〟十亀によるサドンデス・プレーオフに持ち込まれたが、いざサドンデスの開始ということになっても対戦相手の安田が現れない。場内アナウンスをかけ、大会関係者が手分けしてあちこちを探し回ったが、歴戦の強者はホールアウト後、早々に空港に向かってしまっていたのだ。この時、すでに機上の人。
これを知った競技委員長は、安田を「試合放棄による2位」と裁定し、十亀をチャンピオンとした。表彰式で十亀が、コース上空に機影を発見し、ゆっくり手を合わせたという。
日本ゴルフツアー機構によるこの大会の正式記録は「十亀がプレーオフを制して優勝」となっており、安田は「プレーオフ負け」で「試合放棄」とはなっていない。
◇古賀 敬之(こが・たかゆき)
1975年、報知新聞社入社。運動部、野球部、出版部などに所属。運動部ではゴルフとウィンタースポーツを中心に取材。マスターズをはじめ男女、シニアの8大メジャーを取材。冬は、日本がノルディック複合の金メダルを獲得したリレハンメル五輪を取材した。出版部では「報知高校野球」「報知グラフ」編集長などを歴任。北海道生まれ、中央大卒。