過少申告は失格だが、過大申告は〝おとがめ無し〟で通過する。その端的な例が、鈴木規夫の1ホール「42」。1987年の東海クラシック2日目、鈴木は最終ホールとなった9番ホールを「パーの4」で上がったが、スコアを記録する同伴競技者であるマーカーがミスしてそのホールのスコアを記入すべきところに、ハーフの合計スコア「42」を書き込んで提出してしまった。結局、この日のスコアは「122」となり、この日の正式スコアとして認められてしまった。当然、1ホールで「42」も叩いたことになったのだから予選落ちして鈴木は会場から姿を消したが、そのスコアは〝記録上のワースト〟として永遠に残ってしまった。
実は、1968年のマスターズでも、この手の「過大申告」が大きな悲劇を生んでしまったことがある。アルゼンチンのロベルト・デ・ビセンゾが〝主人公〟。デ・ビセンゾは最終日のこの日は好調で、65の好スコアをマークして首位を走るボブ・ゴールビーに並びかけた。当時、プレーオフ決着の場合は、最終日の翌日に改めて18ホールを回って争われるものだったが、しかし、あろうことか、マーカーとなったトミー・アーロンは、デ・ビセンゾがバーディーとしたパー4の17番のスコアを、うっかりパーの「4」と記入してしまった。当のデ・ビセンゾもこの誤りに気がつかず、スコアカードを提出してしまった。従って、最終日に「65」をマークして、優勝争いはプレーオフに持ち込まれるはずだったが、過大申告で記録上は「66」となり、結局、ゴールビーが1ストロークかわして逃げ切り優勝となった。もしかすると、デ・ビセンゾがプレーオフを制し、マスターズ優勝者として名を留めていたかもしれない―というこの「誤記」は半世紀近くが過ぎた今でも「ゴルフ史上最大の悲劇」として語り継がれている。
なお、これには後日談があり、デ・ビセンゾは誤記入したアーロンに対して、決して非難めいた言葉を口にすることがなく「2位という結果は簡単には受け入れられないが、ルールは受け入れる」と潔かった。その姿に多くのファンが賞賛、そして、当時、病床にあった大会の創始者であり、唯一のグランドスラマーであるボビー・ジョーンズは事の顛末を知り「私にとって今回のマスターズの優勝者は2人だ」と語ったという。
◇古賀 敬之(こが・たかゆき)
1975年、報知新聞社入社。運動部、野球部、出版部などに所属。運動部ではゴルフとウィンタースポーツを中心に取材。マスターズをはじめ男女、シニアの8大メジャーを取材。冬は、日本がノルディック複合の金メダルを獲得したリレハンメル五輪を取材した。出版部では「報知高校野球」「報知グラフ」編集長などを歴任。北海道生まれ、中央大卒。