スポーツ人・大橋巨泉さん 武藤のコラム


 大橋巨泉さんが逝った。芸能界の巨人はスポーツ界への貢献度も計り知れなく大きかった。ボウリング、ゴルフ、競馬は戦後の新しいスポーツ文化として根づいた点で共通点があるが、テレビを通じて一般に広めた功労者だ。

 

 好奇心がエネルギーだった。自分が楽しむことを基本にのめりこむと全身全霊で取り組んだ。ボウリングもゴルフもプロ級の腕前、競馬は評論家の域に達した。

 

 ゴルフは静岡・伊東のサザンクロスCCのクラブチャンピオンの腕前。ゴルフがうまくなりたくてコースに隣接した別荘を自宅としたのは1960年代。深夜番組で10パーセントを超える「11PM」がヒットするさ中、月曜から木曜まで東京で過ごすと、金曜日の早朝に伊東へ。週末はゴルフに打ち込んだ。ゴルフはパワーゴルフで飛んだ。当初、ボウリングからゴルフに転じたばかりでめきめき上達。そのころあるプロが「どうしたらそんな急激にうまくなれるのですか」と驚くと「そこらのプロゴルファーよりプロらしい生活しているもん」と胸を張った。週末はトレーニングを欠かさず、「日本のプロが俺ぐらいゴルフに打ち込んだら世界で勝てるよ」と真剣な表情で言ったものだ。

 

 1977年、芸能界の腕自慢とプロが参加するプロアマトーナメント「アサヒビール大橋巨泉ゴルフ」を立ち上げた。「プロとアマがゴルフを本当に楽しむ大会にしたい」という思いがあった。ユニークだったのは、大会に参加するプロに「アマにゴルフの楽しさを伝えられる愛情と熱意をもったプロ」という条件を付けたこと。そのためゴルフマスコミに選考委員を委託したほど。「本気でゴルフの楽しさを追求する気持ちを持ったプロと本気でゴルフを楽しみたいアマの融合。そんな大会が日本には少ないから」大会は85年まで神奈川・横浜CCで、86年からはハワイのワイレアGCに舞台を移し17年間も続いた。男女の協会のバックアップする海外大会には、出産して復帰する樋口久子プロの再起戦になったのも懐かしい思い出だ。ビートたけしのゴルフデビューの場ともなった。巨泉さんの思いは1984年、歌手で作曲家の平尾正晃さんの「平尾正晃プロアマ」へと日本で引き継がれている。ツアーゴルフ界活性化の先鞭をつけた巨泉ゴルフの功績と受け止めている。毎週、トーナメントが続く日本の男女ツアーだが、プロの賞金争いに終始する昨今の空気にはツアーの限界がのぞく。米ツアーの「ペブルビーチプロアマ」のようなプロアマ競技が日本にいまだ育たないのは残念だ。プロアマがチームでスコアを作る予選ラウンドを経て最終日の日曜はプロの真剣なプレーが引き締める、そんな融合こそ、巨泉さんの遺志だった。改めてその目指したところを考えることが今、必要なのではないだろうか。

 

 ハワイのプロアマの出場者はギャラなし、ホテル代、旅費は主催者もち。プロも同じ条件、その上、賞金も出た。巨泉さんはトーナメントプロデューサー、ディレクターそしてプレーヤー、パーティーの演出者、切り回し役と八面六臂の活躍だった。そこには辣腕のコミッショナーの姿があった。ゴルフへの想い、強いスポーツへの愛着がエネルギーとなっているのだ、と頭が下がった。ありがとうございました、と、メガネ越しの優しいまなざしに言葉をかけ手をあわせる。

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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