藍ちゃんは29歳なんだ。


 29歳のレディーを藍ちゃんもないものだが、僕の中では宮里藍はいつまでも藍ちゃんだ。14歳の中学生の時に東京よみうりCCの「ワールドレディス」で低いフックボールを引っ提げて沖縄から参戦してきてからもう15年だ。当時は低いフックボール一辺倒でまだ中学生が大人に交じって出ること自体が珍しい時代でそれだけのことが面白く見守ったものだ。

 が、その子が高校生になると年ごとにタイトルを増やし存在感を増した。世間では高3で「ダンロップ女子オープン」に優勝、高校生のアマ優勝の快挙が有名だが、年齢制限でプロ入りはできなかったのを、当時の樋口久子・LPGA会長を動かし特別承認という形でプロ入りへの道を開いた。樋口さんはそうした時代の動きに本当に敏感な人で決断も早い。

それ以前から藍ちゃんら若い人を見るにつけ「武藤さん、もうあと数年でこの子たちが日本の女子プロゴルフ界を引っ張っていくから見ていてくださいね」と言っていた。その言葉はアマ優勝する以前、室蘭での日本女子オープンで藍ちゃんが4位に食い込むローアマで証明され、さらに千葉の日本女子アマで上原彩子、諸見里しのぶ、藍ちゃんの沖縄勢がベスト4を占め、上原が優勝、藍ちゃんは決勝に進めず涙を呑むといった”沖縄ブーム”を生んだ。日本女子の今はこの時が始まりで今の隆盛がある。

 前置きが長くなったが、今はメジャーとなった15年シーズンの「ワールドレディス・サロンパスカップ」で藍ちゃんが予選落ちした。03年プロ入り以来4度目のことだという。びっくりした。土日には茨城GCに行き久し振りにあってパット談義でもしよう、と思っていたがだめになった。茨城に入ったら、ここのところパットが悪いということなので話したいことがあった。なに?素人の話をプロがきくか!と言われるだろうが、藍ちゃんは違う。人のいうことを注意深く聞く。

 まだ高校生のあるときの記者会見で「トップの収まりが悪くて今日はショットが曲がって困った」というからトップの位置を治すのなら左ヒールアップを注意しなさい、左のヒールとトップにある手の引っ張り合いが大事だよ、とうんちくを傾けると、翌日、おかげさまで治りました、とお礼に来た。アマの爺さんが余計なことを言ってごめんね、というと、「いいえ、私にはすべてが貴重なお話です、ありがとうございました」と言われた。まだ高校生の時のことだ。頭のいい子のことを昔は「悟(さと)い子」といった。頭がいいとか、賢い、に当てはまらない、勘のいい子、気配りがある賢さ、といった意味合いがある。藍ちゃんはそんな子なのだ、とその時、思ったものだ。

 藍ちゃんがまだ小学生の頃、父親でコーチの優さんと話した。兄2人が話題になっていたころで「すごい素材が2人もいて楽しみですね」というと「実は私が期待しているのは娘です。この子はゴルファーとして一つ抜けた、すごいものを持っております、私はほかの二人より期待しておるんです」と琉球なまりで言われたことがある。娘さんはおいくつ?と聞くと「小学校5年生です」笑いもせずに言った。長ずるに従いすごい成長ぶりを見せる藍ちゃんを見るたびに父親の先見に舌をまいたものだ。

 藍ちゃんがプロになったあと目標に全米オープン優勝という言葉が出た。その瞬間、僕には「29歳で勝つだろう」という声が聞こえた、いや、天の声だ。その頃、米女子ツアーにアリソン・ニコラスという名のイングランド出身の小兵の選手がいた、身長5フィートというから150センチ、当時日本にも何度か来日したが、アメリカで2勝を挙げ話題になった。小さいのに頑張っている、年齢は29歳、と聞いた。小さくても29歳なら経験も豊富になる。外人でも勝てるんだ、と”天のお告げ”だったのだろう。藍ちゃんが全米オープンに勝ちたいと言ったのを聞くと同時に外人、小兵、29歳、とひらめいてしまったのだ。何の根拠もない、他愛ない話である。

 全米オープンではないが全米プロが6月14日(日本時間15日)最終日を迎える。1985年生まれ、藍ちゃんの誕生日は6月15日。その日までは29歳。この大会がお告げのぎりぎり期限である。願いが天に届けばいい。もしだめでもその後3つのメジャーがある。女子ツアーのメジャーは今年5大会に増えた。悲願達成を年末まで楽しみに待っている。

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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