東京五輪男子ゴルフは29日、埼玉・霞ケ関CC(7477ヤード、パー71)で開幕。初出場の日本代表・星野陸也(25)=フリー=は、歴代最多に並ぶ6度の全国制覇を誇る名門の茨城・水城高ゴルフ部魂を胸に夢舞台に挑む。同校元監督で星野を指導した恩師の石井貢・明秀学園日立高総監督(72)は「可能性は無限大」などの金言を体現する教え子の成長を証言。186センチの長身に柔軟な思考を併せ持つ大器の原点に迫った。
クレバーでスケールの大きなゴルフは高校3年間で培われた。星野は、入部当初、既に身長180センチで抜群の飛距離もあったという。石井氏は「入学時の実績は同期では下の方でした。細くて腰痛もあり、厳しい3部練習についてこられるか心配だった」と振り返る。
全国最多の団体戦優勝を誇る部のモットーは「練習は試合のように、試合は練習のように」―。実戦を想定した準備をすることが大事だと石井氏は説いてきた。「80%の準備で満足する子が多い中、星野は片山や宮本と同じく120%の準備ができる子でしたね」
水城高は朝、昼、夜の1日3部で約7時間の練習。朝はショートゲーム、昼は基礎体力、夜は練習場でスイング、週末にゴルフ場でラウンドした。星野は毎日始発で笠間市内の自宅から通った。小技が欠点だったため、毎朝7時から1時間半のアプローチ、バンカー、パター練習に没頭した。
「強い向上心があった。『可能性は無限大』という言葉をよくかけましたね」。勉強の成績も学年上位で2年時に急成長。持ち味の飛距離を生かす術(すべ)を身につけて、関東ジュニアで初優勝して団体戦のレギュラーの座もつかんだ。
14年の関東ジュニアで勝った会場で今年5月、日本ツアーで優勝。全英切符を手にし、五輪代表入りも決定づけた。その後、星野から電話があった。「だいぶ上達したな、いよいよ舞台が世界になってきた。全米や全英も頑張れ」などと声をかけたという。「プロになっても年々、いろんな経験を吸収して器が大きくなっている。まさに無限大の可能性を秘めていますよ。米男子ツアーで2年くらい経験を積めば、松山英樹君よりも若く海外メジャーで勝てるんじゃないかと私は思っています」と話す。
惜しまれながら廃部となって5年が過ぎた。JR水戸駅からほど近い水城高の校庭には、ゴルフ部の栄光が刻まれた石碑が2つある。創部20、30周年記念につくられたもの。輝かしい優勝の歴史が刻まれているが、石碑にはまだ余白もある。「東京五輪でメダルを取ったら、ぜひ星野の名前も刻んであげたいですね」と石井元監督。星野が新たな歴史を紡ぐ。(榎本 友一)
◆星野 陸也(ほしの・りくや)1996年5月12日、茨城・友部町(現・笠間市)生まれ。25歳。6歳からゴルフを始め、水城高では2、3年時に関東ジュニアで優勝。15年に日大進学も2年で中退し、16年にプロ転向。18年のフジサンケイクラシックでツアー初優勝。通算5勝で17年から賞金シード獲得中。今季は3勝など日本ツアー賞金ランク1位。愛称は親交が深い石川遼が名付けた「リッキー」。186センチ、76キロ。家族は両親と姉、妹。
◆水城高校ゴルフ部 1977年、石井貢監督のもと同好会として発足。6人の部員とグラウンドの一角を整地してお手製の練習場をつくり、7年目で全国高校選手権初出場。11年目に同選手権団体初優勝。片山晋呉、宮本勝昌、横田真一らを擁して夏季6度、春季4度の団体優勝。石井監督の後継者が見つからず、16年3月限りで廃部。39年間で30人以上のツアープロを輩出した石井監督は、明秀学園日立高ゴルフ部の総監督に就任して女子の指導をしている。16年リオ五輪の片山晋呉(54位)、東京五輪の星野と2大会連続で五輪代表を輩出した。
◆霞ケ関カンツリー倶楽部 1929年、埼玉・霞ケ関村(現・川越市)に東Cがオープン。32年に西Cが増設された。設計は東Cが藤田欽哉氏、赤星四郎氏。西Cが井上誠一氏。57年にカナダカップ(現W杯)が東Cで行われた。2013年に東京五輪開催決定後、マスターズの会場オーガスタナショナルGCの改造も手がけた世界的設計家トム・ファジオ氏(米国)に東Cの改修を依頼。赤松など日本庭園のような美しさは残し、フェアウェーに起伏が施された。全長は7466ヤード、パー71にのび、バンカーは半減となり再配置され、戦略性が増した。