“ボビー・ジョーンズの庭”のこれ以上ない贅沢なガーデンパーティー 最終戦・ツアーチャンピオンシップはスピースが優勝、松山は12位 武藤のコラム


 球聖ボビー・ジョーンズの生まれ育ったアトランタ。その生涯を通じて愛したイーストレークGCで行われた「ツアーチャンピオンシップ」は今季、最高の盛り上がりだった。PGAツアーの年間王者を決める「ツアーチャンピオンシップ」最終日は9月27日(日本28日)米ジョージア州アトランタ郊外のイーストレークGCで行われ、ジョーダン・スピース(米)が1アンダー69、通算9アンダーとスコアを伸ばし2位に4打差で優勝、年間王者となった。マスターズ、全米オープンに勝ち好調なシーズンをツアーナンバーワンで締めくくったスピースは今季最多の5勝を挙げ、22歳の若さでツアーの頂点へ立った。シーズン5勝は史上最年少記録、ワールドランキング首位の座も奪回、後日選考のMVP(最優秀選手賞)も確実にした。

 今季のレギュラーシーズン125人によって争ったフェデックスシリーズ4戦は出場者を75人、50人、30人と絞るノックダウン方式で争われ優勝すれば大逆転で年間王者のチャンスだった松山英樹だが、イーブンパーの12位に終わった。昨シーズン、「メモリアルトーナメント」で初優勝も今季2勝目はならなかった。しかし、3位を筆頭にトップ10入り9回と世界レベルの安定した成績を残し来季に期待を持たせてくれた。アメリカツアーは10月15日から15-16年シーズンが早くもスタートする。

 1902年生まれのジョーンズがイーストレークのクラブチャンピオンとなったのが13歳のとき。28歳の1930年、全英アマ、全英オープン、全米オープン、全米アマの4つのタイトルをすべて獲得、年間グランドスラムを達成し、これを潮時に競技生活を引退した。この間、全米、全英オープン各4回、全米アマに5回、全英アマに1回優勝。引退後、オーガスタ・ナショナル・ゴルフコースを作り1934年からマスターズが開催されている。

 スピースの今年の快進撃の始まりはマスターズ優勝だったことと無関係ではない。全米オープンも勝ったスピースは一躍、スターとなる。20歳でテキサス大を中退、プロ入りした。あふれる才能を引き出したのは6歳下の妹エリーさん。自閉症のハンデを背負う妹の励ましがツアーを乗り切る原動力だ。「僕が励まされている」といつも感謝している。

 シーズン最後の4戦はいきなり2戦を予選落ち、27歳のジェイソン・デイにワールドランキング首位も奪われた。そんな時、エリーさんはじめ家族やスタッフの応援が何よりの支えとなった。最終日はエリーさんもコースで応援した。「彼らの明るい笑顔が大丈夫だよと後押しした。おかげで消極的な気持ちがアグレッシブになった」

 イーストレーク・コースも後押しした。今大会で12回目。年間王者を決める舞台となったのはトーナメント王国アメリカのこだわりだった。年間王者決定戦開催がジョーンズ生誕の地に決まると、改造には“全米オープンドクター”の設計家リース・ジョーンズにリメイクを託した。

 タフで変化に富み難度の高い大会コースは選手の技術を”これでもか”と引き出し、稀代のリメーカーの登用は成功した。今回の試合展開は“8アンダー前後のスコアが最もトーナメントとしては面白い”と言われる”筋書き“通りになった。

 ステンソンはついに最後の2日間、ドライバーを封印し続け、フェアウエーキープに徹した。

 スピースら他の20歳代の若手がガンガン飛ばす中、フェアウエーウッドでティーオフ、その大胆な選択にギャラリーをびっくりさせた。ステンソンは終始大会の中心にいた。最後に力尽き5アンダーの2位も作戦は成功したのだ。

 一人、9アンダーまで伸ばしたスピースはショートゲームで他を圧しただけに二人の相反するタイプのぶつかり合いは見応えがあった。ボビー・ジョーンズの築いた伝統が、イーストレークに息吹を与えた。勝ったスピースが誰よりもしたたかに輝いた。

 最終日、スピースはその持てる才能を引き出されている。パットの名手は当初、パットに苦しんだが、今大会ついに3パットは一回もなかった。あの難コースで、だ。これを称して「ジョーンズの思いやり」と言おう。22歳の若きチャンピオンをまたも“自分のコース”で表舞台に引き上げた、のである。

 ジョーンズの思いは松山にも伝播した。列強のトッププレーヤーの中で堂々と戦って頼もしかった。こんな事実が松山とオーバーラップしたものだ。

 28歳で引退した球聖は弁護士として生涯を通した。競技の表舞台から姿を消したが、1935年5月、このイーストレークで国際試合が行われるとその代表選手として出場したことがある。ジョーンズ、最後の競技と言われている。

 5月22日、ボビー・ジョーンズはダブルス戦の対抗戦の先鋒として第1試合に出場、引き分けている。試合は3戦ともダブルス戦で1勝1敗1引き分けのタイだった。もったいぶって詳細を伏せたのには理由がある。

 競技は日本から遠征した日本チームと地元選抜との対抗戦だった。同年、日本は6人のプロをアメリカに送った。安田幸吉以下、宮本留吉、浅見緑蔵、中村兼吉と陳清水,戸田藤一郎である。アメリカの発案で日米対抗戦はこの年、3月から3か月間の間に全米で42戦の対抗戦を行った。「日本からトッププレーヤーが来る」アトランタではその人選を進めると「それなら私が出ないと失礼にあたるね」とジョーンズがいったかどうかは定かではないが、思いやりの人である。自らホストを務めたのだ、と推測される。33歳だった。

 ジョーンズはイエ―ツと組み上下、白いニッカボッカ姿。日本は陳と戸田が相手をした。この二人は2年後の第3回マスターズに日本代表として初めて招待されるが、このときの対戦が関係したかどうかはわからない。しかし、マスターズは招待競技である。ジョーンズの印象がその選考を左右することは確かであろう。

 ツアーチャンピオンシップに自力で2年連続の出場を果たした松山をジョーンズは快く天空から眺めていたことは確かだ。松山はジョーンズの前に出しても恥ずかしくないどころか、これが松山です。声を大にして紹介したい戦いぶりであった。

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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