ジ・カントリークラブディフェンディング イギリス人が勝った 武藤一彦のコラム


 男子の今季メジャー3戦、全米オープンは6月19日、米マサチューセッツ州ボストン郊外のザ・カントリー・クラブ(パー70)で最終日を行い、首位タイスタートのマシュー・フィッツパトリック(27歳、英国)が2アンダー68、通算6アンダーディフェンディング優勝した。2位はザラトリス(米)で1打差。イングランド勢では70年トニー・ジャクリン、2013年ジャスティン・ローズ以来久々の快挙となった。6差17位からスタートした松山英樹は5バーディー、ボギーなしのベストスコア65でまわり、通算4アンダー、2打及ばず4位に終わったが、大健闘だった。

 

 松山は3番でグリーン奥4メートルのカラーからのアプローチをパターで狙いすまして入れるナイスパー。前日までの湿ったパットが嘘のような快進撃を切り、6番で1メートル、7番は5メートルをねじこむ連続バーディー。インは12番を10メートルのフックライン、13番は8メートルのスライスラインをねじこみ連続バーディー。さらに16番パー3で5メートルを放り込んだ。
 ボギーなし、5バーディーの猛攻で通算4アンダーは、ホールアウト時、首位と2打差あったが、上々のホールアウト。後続は難ホールを残し心理的プレッシャーがかかる局面でラリー・モンテスの逆転優勝に期待したが、奇跡は起こらなかった。
 最終組、フィッツパトリックは、入れてはいけない“魔のクロスバンカー”から8アイアンで7メートルへ乗せるナイスリカバリーでパー。ザラトリスが5メートルのバーディーパットを入れればプレーオフににもつれ込む展開となるも外しあっさり決着となった。

 

 フィッツパトリック、英・イングランド出身の27歳。アマ時代、全英、全米オープンのローアマを獲得、米・ノースウエスタン大に1年留学した後プロ転向、24歳になったばかりで、ニック・ファルドを抜いて同国最年少の24歳8日で欧州ツアー通算5勝をクリアしている。その後欧州ツアー7勝。だが、米ツアーは今回のメジャーが初V。欧州ツアー、ゴルフ発祥の英国はさぞ喜んでいることだろう。快挙だ。

 

 全米オープンのタイトルが今回、ゴルフの故郷、英国へひさびさに持ち帰られたことに驚きを隠せない。英国は鼻高々であろう、さぞ、喜んでいることだろう。フィッツパトリックは「ツアー初優勝が全米オープンというのは考えもしなかった。自分のやったことだが、信じられない。パーオン率を意識し安定したプレーだけを心がけた。最終ホールのバンカーからのショットはキャデイのビリー(フォスターさん、53歳)のアイデアで自信をもって、ショットできた」と同じイングランド出身の年配キャディに感謝して、心打ついい話となった。

 

 松山は自己の全米オープン10回目の挑戦だった。米ツアー8勝、マスターズ優勝の今や押しも押されもしない世界の松山にとって2013年10位、2017年2位の全米オープンの優勝に期待するものがあったのは当然だろう。この日は「微妙なパーパットを入れたら5バーディーが来た。優勝?コリン(モリカワ)との最終日ベストスコア争いで負けないように頑張っただけだ」と無欲を強調したが、ホールアウト後は淡々。「4日間、ショットの調子があがらない中、パットの調子があがればアンダーパーになるのはわかっていたが、結果的にゴルフはパットの調子しだい。課題ですね」と首を振った。見せ場を作った満足感はあるが、そこは勝負師、目指す優勝を前にしながら、逃げていく結果を追う生活に、うんざりしているように見えた。だが、苦手なリンクスで4位、何かをつかみかけているのだろう。目力(めじから)は先を見据えて穏やか。そう、今回ほどおっとりとした4日間を初めて見た、と思うがどうだろう。

 

 マサチューセッツ州ボストンのブルックライン郊外のザ・カントリークラブ。筆者は1988年大会を取材したがその時ときのことだ。優勝したカーチス・ストレンジが午後4時に始まった公式インタビューを延々5時間、新聞、雑誌の記者のとりつくままにビールジョッキを次々とお代わりし、とことん付き合うのを目にした。“全米オープンに勝つということはこれほどうれしいことなのか”驚きがあった。だが、そこにボストンのゴルフへの思い、アメリカの強い熱意を感じたものだった。
 その大会名にある定冠詞”ザ“は、ほかのゴルフコースに対する優位を主張して米ゴルフ界の誇りである。この呼称、英米では”ザ“ではなく”ジ“と発音する。全英オープンを”ジ・オープン“と呼ぶのと同じである。

 

 当初6ホールだったコースは1910年18ホールへ。その3年後の1913年、全米オープンを開催、20歳のアマ、フランシス・ウイメットが英国のハリー・バードン、テッド・レイの全英オープン王者を破りアメリカにタイトルをもたらした。ウイメットは10歳の少年、エディ・ロワリーをキャディーに1日36ホール、2日間、72ホールを戦い、3人がタイ。そこで翌日18ホールのプレーオフの末、ウイメット72、バードン77、レイ79でようやく決着がついた。ここで気になるのが10歳の少年に1日36ホール、重いバッグを担がせることが気になるが、当時、クラブは10本、ズックのバッグに入れるだけの軽量である。
 20歳と10歳のニッカポッカでの健闘はアメリカ中を感動に巻き込んだ。この出来事は英国中心のゴルフ界の流れがアメリカ人に初めて開かれたことを示した画期的な出来事となったことで意味があった。ちなみに優勝者ウイメットは生涯アマを通し、のちにゴルフ発祥の本場、英・セントアンドリュースのキャプテンに選ばれている。またキャディーのエディ少年は、のちにマサチューセッツ州のアマ・チャンピオンとなり全米ゴルフ協会の執行役員を務めている。
 ジ・カントリークラブは50周年大会の1963年と75周年に当たる1988年にも全米オープンを開催しているが、1880年代のアメリカゴルフ界の草創期を支えた名門コースへのリスペクトの念の表れであろう。ちなみに63年の優勝者はジュリアス・ボロス、88年は記述の通り、カーチス・ストレンジ。いずれもジ・カントリーの勝者は米国人である。だが、アメリカで開く大会でアメリカ人が勝つのは当たり前という思いに慣れたゴルフ界だが、今回、優勝者がイングランドのマシュー・フィッツパトリックだったことに驚く今回である。アメリカが強いという常識は今回初めて覆った今大会。ゴルフの歴史は変わった。

 

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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