故郷に届け元気ショット 永野竜太郎、初めてのナイスプレー 武藤のコラム


 16年日本ツアー開幕戦「東建カップ」(三重)で3位に入った永野竜太郎(27)は熊本大震災に見舞われた熊本市益城町の出身。代々の酪農一家、祖父が牧場を経営していたころ竜太郎が生まれ趣味のゴルフが高じた。広大な土地の片隅にあった練習場は当初、鳥かご程度の大きさだったが、初孫は体が大きく球を打たすと曲がらず飛んだ。中学に入る頃にはドライバーをぶんぶん振り回してもびくともしない打ちっぱなしレンジも5つの、“打ちっぱなし”プライベート練習場だった。
 リュータロー、名前もいいが、環境がよかった。中学1年の時、熊本空港CCのクラブチャンピオンになった。「熊本の空港カントリー」といえば九州のナンバーワンコース。起伏のある丘陵地帯はパワーがなくてはお手上げ、戦略性を欠くとさらにスコアにならないタフさで知られる。このコースの選手たちは日本アマなどで必ず上位に来る。トップアマがひしめく。そんなコースで12歳の少年が“クラチャン”というのだから、信じられないことだった。
 熊本のゴルフをもう少し。不動裕理、古閑美保、有村智恵ら女子に名手が誕生したのもジュニア育成の成果。ということはゴルフ界で知らぬ者なし。清元登子という30歳までアマで活躍し、プロ入りした1939年生まれの女子プロのパイオニアがいる。この人が日本女子プロ協会の理事(のちに会長にあたる理事長になる)になると、まずやったことは熊本周辺のコース、練習場を訪れ「子供たちにゴルフができる環境を」と訴えて歩く。それに呼応して練習場は子供に無料開放やジュニア教室で応え、コースが全面的に受け入れた。その後、である。沖縄を含む九州から続々と若手が育ちジュニアが日本中で育っている。

 永野は茨城の水城高、東北福祉大と名門に進んだ。だが、運命の分かれ道。大学2年の時、プロのQT(Qスクール、ツアーに出場するためのプロテスト)に挑戦、13位でツアー出場資格を取得するとプロとなった。ここからは私見。
 プロ入りはまさに運命の岐路。それを、結果をみてから言ってもせんないことだが、学業を放棄しプロに行ったのは失敗と出た。そのままアマで経験を積み、プロ入りはそれからでもよかったのではなかったか、というのが勝手な詮索である。プロ入り後は苦労の連続。苦労は金で買ってでもしろ、といわれるが、もっとゆっくり,天性を磨いてからでも遅くなかったのではなかったか。神のみぞ知る、である。そんな苦労を重ねる25,6歳のころである。永野と膝を詰めて話した。勢いのあったあの頃、大学時代を振り返った。こんな話題。
 ―石川が15歳で優勝しプロ入りしたことがペースを崩したのではないか?「正直言って焦りがあったと思う」-じっくりやってきた選手はみんなおかしくなってしまった?「自分が3歳年上という自負があった。上級生、先輩として後輩をリーダーとして引っ張っていこう。そんな立場が、あっという間に追う立場になった。自分を見失っていたと思う」
 そんな内容。“じっくりやってきた選手”とは当時、東北福祉大のエースで日本ナショナルチームの池田勇太であり、日大の小平智だ。そのころ、有望選手は大学で腕を磨き、卒業してから解き放たれたように活躍すべし、そんな時代が“はにかみ王子”石川遼によってひっくり返った。アマ仲間だけではない。プロの面々も「何が大事か」「どうしたらいいか」―立て直しと価値観探しに翻弄された。
 言ってもせんない戯言(ざれごと)だ。永野には特に聞き流してほしい。昨年、ようやく日本シリーズに出場、トッププロ入り。しかし、シーズンを見ると最終日に弱い。攻める前に自ら引くのである。“中一のクラチャン”になった時を思い出せ!何回、心の中で叫んだことか。
 しかし、「東建」の最終日、脱した。永野は別人となった。ベストスコアに1打及ばなかったが、66の猛攻。インは6バーディー、1ボギーの31。最終ホールに近づくにつれ調子を上げた。
 気迫のショット、鬼気迫るバーディーラッシュ。遅れてきたホープに何かが乗り移ったようだった。そして、その通りだったのだ。
 「緊張で弱い自分が出てしまう最終日だが、いまの熊本、地元のことを思えば恐れていられないと強い自分を出せた」と言った。
 永野はすべてのショットを熊本へ打ち放ったに違いない。余震の危険を避け市内の自宅の車の中で過ごす祖母と母、そして喘ぎ苦しむ故郷に、気持のありったけをショットに込めた。とても良いゴルフだった。

 
武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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