日本シリーズまでの主役は池田勇太、そして石川遼だ。日本ツアーあと7戦 武藤一彦のコラム


 日本ツアーは最終戦の「ゴルフ日本シリーズJTカップ」まであと6戦、今週は千葉・袖ヶ浦カントリーで「ブリヂストンオープン」次いで、大阪の「マイナビABC」沖縄の「HEIWA・PGMチャンピオンシップ」さらに恒例のインターナショナル3連戦、「三井住友VISA太平洋マスターズ」(静岡)「ダンロップフェニックス」(宮崎)「カシオワールド」(高知)、そしていよいよ日本シリーズ。と、こう見てくると賞金ランクがちらつくが、今年は混戦、小平智が1億752万円のトップ、宮里勇作が1億40万円で712万円差、3位の池田勇太とは768万円と僅差だ。池田には2年連続の賞金王がかかる。宮里、小平なら初めて。日本ツアーの勢力図はめまぐるしく動くが、中心は池田だ。今季、春にはマスターズなど米男子プロツアー遠征で留守にしながら先の日本オープンなど3勝。31歳は心身ともに充実、生涯で最も安定したシーズンを迎えた。

 

 今年は何か浮き立つものがある。どうしてだろう?と考えてふと気が付いた。 米ツアーの開幕が原因だった。終盤のビッグイベント、日本オープンと米ツアーの開幕が重なった。この頃の世界ツアーは複雑だ。
 米ツアーが10月開幕となり年をまたいで行われて2年、特に今年は、米の開幕2戦目のマレーシア・クアランプールの「CIMBクラシック」に松山英樹がデフェンディング・チャンピオンとして華々しく今季をスタートした。結果は5位、さすが松山、いいスタートを切った。今季もメジャー制覇をめざしガンガンいってくれる、期待していいだろう。

 

 そんな中での日本オープンは、池田勇太がアマの金谷拓実に尻をつつかれたが、逃げ切った。2日目にトップに立ち3日目は一時2位に7打差をつけ楽勝かと思われたが、ゴルフが変わりアップアップ。最終日の17番では東北福祉大後輩の金谷に1打差、小平には2打差まで詰め寄られた。金谷の逆転劇ならアマのメジャー優勝、1927年の第1回日本オープン、赤星六郎以来90年ぶりの偉業達成だった。

 

 池田の冷や汗の優勝劇は、日本ゴルフ史の雄大なドラマを垣間見せて、本当に面白かった。乱戦を自ら演出しておいしいところをものにする。後世に名を遺すとはこういう背景があってのものだ。池田は今、時代を作ろうとしている。流れは池田。シーズン末の主役である。

 

 そして、もう一人の注目は石川遼だ。ついに来るところまで来てしまった。日本オープン予選落ちは信じられなかった。腰痛から公傷制度を適用され復帰した今季、ついに米ツアーをシード落ちした。2018年シーズンの出場権をかけた下部ツアー、最終戦の「ウエブドットコム・ツアー」は25人枠にすら入れず帰国、日本ツアーで捲土重来を期した日本オープンだったが、悪い流れは変えられなかった。米ツアーに夢を託して継続して戦うには日本ツアーの残り少ないチャンスを生かさなければならなかったが、その初戦の日本オープンでいきなりつまずいた。次戦は「ブリヂストンオープン」だが、残り6戦に勝負をかける状況だ。
 石川遼は、日本シリーズに出場できるか。シーズン末のテーマである。残り試合で往年の冴えを見せ、勝てば30人枠。さらにシリーズを制すると米ツアーに最短復帰できる。むりだ~? いや、わからない。

 

 米ツアー残留をかけた最終戦の「ウエブドットコム・ツアー」の第1日、石川の、いや米ツアーでもめったにないアクシデントがあった。
 その日、インスタートの石川は4アンダー32で後半のアウトコースへ入ると1番でバーディーをとり5アンダーとし好調。だが、2番で左池に入れダブルボギー、続く3番パー3ではまた池に入れ、アプローチを再び池に入れクアドロプルボギーの7。
 パー3を5オン2パット。この2ホールで通算スコアは1オーバーとなった。

 

 さすがの石川もウエッジをたたき折った。だが、そのクラブをギャラリーの少年が苦笑いで渡すと、そのあと2バーディーを加えイーブンパー71(パー71)だった。ホールアウト後はさすがに声がなく、にじんだ涙目から「悔しい気持ちでいっぱい」というのが精いっぱいだった。

 

 来シーズン石川は米男子プロツアー下部ツアーに1月から参戦する。「最終的には米ツアーで勝てると思っている」ときっぱり言う。目指すところはしっかりと見据えている。「年内は日本ツアー。(出場する試合は)全部、優勝を目指す」―遼の開き直り。これは見応えがある。

 

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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