テッド・ポッターが勝った 武藤一彦のコラム


 下部ツアーで埋もれていてもやればできる。2月11日、西海岸の名門、ペブルビーチゴルフリンクスで開催のPGAツアー第14戦「ペブルビーチ・プロアマ」は無名のテッド・ポッター(34)が2位に3打の完勝で優勝を飾った。最終日最終組で競り合ったのはワールドランク首位のダスティン・ジョンソン、前の組にはフィル・ミケルソン、ジェイソン・デー。だが、ポッターは一歩も寄せ付けず優勝した。2年間のシード権を獲得、4月のマスターズ、8月の全米プロのメジャー出場権も手にした。

 

 フロリダ生まれのフロリダ育ち。正式名はテッド・ポッター・ジュニア。コース管理の父、ポッター・シニアを手本に見て覚えたスイングは左打ち。そう、西海岸の名手、ミケルソンが父を鏡に左打ちとなったようにポッター・ジュニアも右利きの左打ちだった。

 

 大会はプロアマ競技を前面にするユニークさが売り。3コースを使ってプロとアマがチームを組んだ変則形式で、プロとアマは二人一緒でプレーするチーム戦とプロの部の二本立て。そんなペブルビーチで開催している大会3日目だ。モントレー・ペニンシュラコース(パー71)を回ったポッターはインスタートの6番を終わったところで1イーグル,9バーディーで50台のスコア目前。だが、8、9番をボギーにし結局、62に終わったが、これで一気にポッターの知名度が上がったのは、トップに立ったからだった。

 

 そうして迎えた最終日。思わぬ展開はスタート直後から始まった。世界ナンバー1のジョンソンがボギーを先行させると、同組のポッターが1番こそボギーとしたが、2、4、6、7番とバーディーを積み重ねアウト33、あっという間にリードを3打に広げポッターが単独トップだ。しかし、コースには、どうせ痩せ馬の先っ走り、といったムードが充満していた。何しろ02年、18歳でプロ入りしたものの、初優勝が12年の1勝。その後はパッとせずここ数年、2部ツアーのウエブドットコム暮らし。「いずれ崩れる」と誰も心配も?しなかった。

 

 無理もなかった。ドライバーの飛距離が280ヤード。ジョンソンに40ヤード置いていかれた。事実、バーディーがでたのは前半だけ。7番を最後にバーディーチャンスも見せられず首位の座は風前の灯に見えたものだった。

 

 「これまでの苦労が報われた。またこの世界に帰ってきて本当にうれしい」ホールアウト後、ポッターの目にはうっすらと涙がにじんだ。声が震え言葉にならなかった。 アメリカンドリームの主役は34歳、181センチ、81キロの物腰のあくまで柔らかい男だった。

 

 実は、下部ツアーの常連だった昨年10月。ウエブドットコムの最終戦「ウエブドットコム選手権」で見たポッターは打ちひしがれていた。その試合、ポッターにとっては翌18年シーズンの出場順位を少しでも上げるための重要な試合であった。だが、予選落ちだった。遠い昔、レギュラーツアーで1勝を挙げても、それは過去のことなのだ。はなやかな過去は何の足しにもならない勝負の世界でもがく男の印象があった。ポッターの復活劇。数々のアメリカンドリームを生んだペブルビーチはまたいいものを見せてくれた。

 

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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