アンとマークセンがオリンピックに夢を運ぶ 武藤のコラム


 女子アン・ソンジュ、男子プラヤド・マークセンと男女ツアーは韓国、タイのベテランが優勝した。外国人選手の優勝は日本選手の弱さに直結し、これでいいのか、といった論調、非難が沸き起こり、ツアー関係者にとっては頭痛のたねだ。特にここ数年のツアーは男女とも韓国が圧倒的に強く、そのためにスポンサーが大会開催を辞退した、という話も聞こえた。だが、ここは視点をかえて眺めると違ったものが見えてくる。ちょっと耳を貸していただきたい。

 オリンピック種目としてゴルフが復活、来年のリオ、その4年後の東京五輪では正式競技として実施される。五輪といえばメダル争い。6年後の東京に向け、五輪担当相を発足、遠藤大臣は、開催国として39個のメダル獲得を掲げた。参加することの意義とは別に最近はメダル獲得数を公然と明らかにし、国威高揚を掲げるのが普通。いや、決して悪いことではない。こうした目でゴルフも見るとまた違ったものに見えてくる、ということである。

 

 「センチュリー21レディス」(静岡・伊豆大仁CC)のアン・ソンジュの強さは筋金入りである。朴セリが全米女子オープンに勝ちアジアにブームを巻き起こした時の申し子の一人。触発されてゴルフを覚えると、ジュニアで頭角を表し05年プロ入り。国内5年で7勝をあげ2010年、日本ツアーへ。その開幕戦の「ダイキンオーキッド」でいきなり優勝するとその年に4勝をあげ賞金女王、以来、女王の座を3回だ。先週の優勝は通算19勝目、苦戦だった。優勝が決まった直後、昨年末に結婚したばかりの夫の胸に顔を埋め泣いた。結婚による環境の変化などが大きなプレッシャーになっていたのだろう。それだけ懸命にゴルフと取り組む強さの秘密を垣間見た気がし、うれしかった。人生をかけ精いっぱい戦う姿にアスリート魂を感じる。韓国の強さだ。

 同期には09年米女子ツアー女王の申ジエ、イボミ、なまじっかではない韓国の層の厚さである。すると、オリンピックで金メダルを首から下げた彼女たちの姿がふんわりと浮かび上がってくるではないか。そして、彼女、彼らに日本ツアー出場の恩恵を与えていたと思っていたが、恩恵を受けているのは我々日本ではないのか。そんな思いに息をのんだものだ。

 

 「ダンロップ・スリクソン福島」に優勝したマークセンは49歳になるという。今回松山を抑えたパワーはどこに潜むのだろう。彼を初めて見たのは1998年、タイガーが母の生まれ故郷・タイに“凱旋帰国”した1998年だった。

 プーケット島のブルーキャニオンGCでの「ジョニーウオーカー・クラシック」にタイガーがやってくる。それは天才児の初のアジア訪問、それだけでタイに行く価値はあった。報知新聞の特派員として出かけた私の取材目的はもちろんタイガー。さらにタイのゴルフ事情を出来るだけつかむことだった。そんな第1ラウンドの組み合わせに当時32歳のマークセンの名前がタイガーとともに記されていた。プラヤド・マークセンはタイのナンバーワンプレーヤーとしてホストプロとしての大役を任されていたのである。現地に行くまで名前を聞いたこともなかった無名選手だった。以来、彼の地位はゆるぎない。49歳6か月にあと2日のツアー優勝は来日したアジア人プロの最年長優勝記録である。教えられることの多いスーパースターのあくなき成長のあかしをまたも見せつけられた。

 

 アンの優勝した「センチュリー21レディス」はもう一つ“いいもの”を見せてくれた。6位・新垣比菜、8位・勝みなみ、11位・蛭田みな美の3人もの高校生が優勝争いをにぎわした。この層の厚さこそ待っていたものだ。

 五輪をにらんだ日本の余裕がここにある。そう、「人間力」を争う祭典、オリンピックに若い力は何より必要だ。

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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