唐突だが、独自性、片山晋呉の冠のついた「ネスレ日本マッチプレーレクサス杯」は注目に値する大会だ 武藤のコラム


 ツアー規定の賞金配分など無視、チャンピオンに7000万円のビッグな賞金を与える男子プロゴルフの「片山晋呉招待 ネスレ日本マッチプレー選手権レクサス杯」(10-13日、北海道・恵庭CC)は、武藤俊憲と片山晋呉の決勝戦となり武藤が3&1で優勝、優勝賞金としては史上最高額の7000万円をゲットした。

 すべての“特典”が一人に集中する、従来なかった日本ツアー外の特別競技として出場選手は30人、18ホールのマッチプレーで争った大会は日本のツアー規定にあわず一般紙は報道しない異常事態だった。

 大会は今年で2回目。“いいだしっぺ”は42歳の現役選手片山。出場者は主催者の推薦で選び、インターネットで試合の模様を逐一流すなど新しい試みがいっぱい。米ツアーでシードを決めた石川遼も出場、盛り上げた。

 当初は男子ツアーの日程に組み入れようとしたが、あまりの奇抜さに同意が得られず独自開催。2回目の今年も大手新聞社などの取材は無し。しかし、テレビ局は大会の模様をBSで長時間流しホールごとに決着するマッチプレー形式は見応えがあった。大会の模様はインターネットでも逐一、映像を流した。

 片山といえば2000年の「ブリヂストントーナメント」で最終日の最終ホール「21世紀はがんばるぞ」と書いたタスキをかけて登場。さらに11月の「ダンロップ・フェニックス」でも最後、50センチのウイニングパットの際、かねて用意してあった「本日の主役」と書いたタスキ掛けで決めたことがある。この行為には、プロゴルファーの悪ふざけ、あるまじき行為という非難が出る一方、ルール・マナーに縛られ重苦しいゴルフトーナメントを変えるには悪くない、という声も出て賛否両論。

 片山自身は「プロゴルファーとしてなんらかの形で自分をアピールすることで自らを高め、それが活力を生みゴルフ界のためになれば良い」と言い、その出たがり精神を認めながらもゴルフ発展への前向きな行動と割り切っていた。片山は、いち早く48インチドライバーや野球のバットかと思わせる“太グリップ”を使用したり、左手の強化のため左手で食事や歯磨きをしたり、左用のクラブでラウンドするなど“型破り”を貫き通してきた。あくまで、その延長線上の盛り上げ策、と言っている。

 日本の男子ツアーは試合数が減り危機的状況にある。女子は若手に頼って何とか人気を維持しているが、韓国、台湾勢に圧倒されて元気がない。そうした中、片山の仕掛けた大会は、日本ツアーへのクーデター、とも受け取られかねない。昨年の準備段階ではツアーの一環として話し合いがもたれたが、未だ平行線のままだ。

 しかし、2回目の今年、何か打開策を!と目指す片山の動きには主催のネスレに加え、協賛にはレクサスが名を連ね、さらにヤマハの協力も取り付けられていた。いずれも長年にわたりゴルフ界へのバックアップを続けている企業である。競技数減の非常事態のなか、日本ツアーは歩み寄るところは歩み寄り、ツアーの発展を推進してほしい。

 ゴルフジャーナリストとしては、破格の7000万円の賞金は確かに高すぎる、と思う。優勝者にのみ高く、敗者には極端に低い配分はギャンブルに過ぎよう。しかし、おしなべてみんなに賞金がわたるように、といった賞金配分制度が、トーナメントを面白くないものにしているのならこれもありだろう。

 今回、主催者は、その使い道を「積極的な海外遠征の費用に」とうたい、その方策として来年の欧州ツアー「ハッサン2世トロフィー」への出場枠を提示した。大会と提携し、日本に閉じこもりがちな選手の積極性を引き出そう、というのだ。

 マッチプレー形式の復活に大賛成のひとりとしては、かつてのメジャー競技への復活も視野に、関係者は前向きにツアー競技への繰り入れを図るべきだ、と思う。

 欧州ツアーとの関係が深まるのは良いことだ、夢がある。「ハッサン2世トロフィー」は3月、モロッコで開催される。今年のチャンピオン武藤が優勝したら、と思うだけで楽しくなる。モロッコですよ。マレーネ・デートリッヒとゲーリー・クーパーの「モロッコ」の舞台、ハンフリー・ボガートとイングリット・バーグマンの「カサブランカ」の映画で有名だ。知らないから夢がある。

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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