ザ・プレジデンツカップの敗戦に想う 武藤のコラム


 韓国で行われた「ザ・プレジデンツカップ」はアメリカが15・5-14・5で松山英樹の世界選抜を破り優勝した。これで通算成績はアメリカの9勝1敗1分け。圧倒的な強さの前に世界は打ちのめされた。

 最終日のシングルスマッチは12人の対抗戦、世界選抜は日本の松山、豪州のアダム・スコット、南アのウーストヘーゼンらがポイントを挙げ1998年以来の優勝まであと一歩まで迫ったが、ならなかった。

 アメリカはスピース、ワトソンが星を落とし苦戦も、ミケルソン、ザック・ジョンソンが確実にポイントを挙げると、最終マッチで、ビル・ハースが地元韓国のベ・サンムンを下し、優勝。8大会連続保持したカップを守った。

 ビルは、今大会のアメリカの総帥、キャプテンのジェイ・ハースの次男。父親のジェイはキャプテン推薦で息子を代表入りさせた経緯があった。注目の最終マッチとなったが、ハースは2アップでベ・サンムンを破った。親子そろって“株”を上げ、父の目には涙が光った。

 勝因はずばり。アメリカの団体戦にかけるこだわりだ。唐突な言い方になるが、星条旗にかけて戦っていた。2年間を通したツアーの成績を基にしたポイントで選手を選考した。選手は国の代表になることを栄誉とした。プレジデンツカップの名称の通り、アメリカの代表選手には時の大統領がディナーを主催、その栄誉を称え健闘を鼓舞する。戦いは国を挙げての注目のイベントなのだ。

 というとアメリカの大統領のための大会のようだが、全く違う。プレジデントに“S”がついて“プレジデンンツ”カップ。その意味するところは、大会は複数の国の最高統治者の総意で開催されているということだ。優勝チームに贈られるカップは出場選手の首長たちが敬意と尊敬をこめて贈る、ゴルフ発展のための感謝状の意味合いを持つ。カップの重みは、勝った負けただけではないのである。

 開催国の韓国は、アジアで初めて大会を開く栄誉を得た。大会は大成功だった。開催コースのジャックニクラウスコースはビジネス特区にあり、日本でいうならお台場のような中に、2010年に開場したチャンピオンコースだ。同じ年に米シニアのチャンピオンツアーを開催、注目されたが、韓国が世界に誇る屈指のチャンピオンコースは、すでにそのとき今大会開催を決めていたのであろう。

 実はアジアでのプレジデンツカップ開催は日本が最初に開催する計画だった。1998年、大会は豪州で行われこのときはじめて世界選抜が優勝した。そのとき02年大会は日本開催という声が関係者の間で起こり、実現に向け動きがあったのだ。

 対抗戦のコンセプトはホーム&アウエーだ。ゴルフ王国・日本での開催は各国の総意だった。だが、計画は以後、立ち消えた。その後、アメリカ以外の開催国は豪州と南アが各2回、カナダで1回。日本開催はいつでもできたのだが、ついに実現しなかった。そして今回の韓国開催だ。

 なぜ日本開催は実現しなかったのか。プレジデンツカップの“S“の開催趣意の理解が得られなかったのだ。大会はゴルフに理解を示し、その発展と育成に寄与する国の同意が不可欠である。それには首長の協力が最前提である。日本ではそれが認められなかった、と憶測するしかない。

 日本の松山のいた世界選抜はわずか1ポイントで敗れ去った。わずか1ポイント、されど1ポイント。たった1勝の間は、わずかではなかった。松山の孤軍奮闘がけなげで物悲しかったのは国のバックアップの無かった寂しさだったかもしれない。

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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