前回チャンピオンの池田勇太。その時、惜しくも2位に敗れた小平が2年越しに争った日本オープン(兵庫・六甲国際)は史上に残る名勝負となった。
大会は第2ラウンドに62の大会レコードをマークした小平が主導権を握り、2連覇を狙う池田とがっぷりと組み合って一歩も引かず、見応えがあった。
最終日、12アンダーのタイで迎えた14番パー5。小平が2オンに成功、バーディーで突き放すかとみていると、なんと3パットだ。 続く15番はともに10数メートルのパット。池田が先に打つとカップをなめて外れた。すると今度は小平が長いのをど真ん中から放り込むバーディーで1打リードした。
17番パー3は先に小平が3メートルに乗せると池田は5メートル。200ヤードの長いパー3の攻防はパット戦に持ち込まれ、池田が先に入れてバーディー。小平は入れられず、パーとした。両者タイとなって勝負は最終ホールへともつれ込んだ。
誰もが知る有名な言葉がある。「パットにうまいものが勝つ」はゴルフ草創期の名手、ウイリー・パーク・ジュニアの名言。池田のプレーをみていてその言葉が脳裏を駆け巡った。しっかりと入れる、うまい、さすがだ。勇太の身上はここにあり!そんな言葉がオーバーラップして、26歳の若武者・小平が小さく見えたものだ。池田の2連覇濃厚、サトシは今年もダメか。そんな思いが駆け巡った・・。
タイで迎えた18番、オナーの池田はティーショットをバンカーに入れた。これを見た小平はフェアウエーを捉えた。池田はバンカーからグリーンマウンド下へ打ち、寄せワンにかけるしかない状況。小平はフェードでピンを指すショットを8メートルに乗せた。このとき誰もが強い小平を認識するのだった。
この日、いや第2日から小平はギャラリーを感嘆させた、グリーンに落ち、その場に食い込んで止まるアイアンの切れ味は、日本オープンの定評のある硬いグリーンを完全に制圧していた。そのスピンコントロール、重圧のかかる最終段階での逞しさ。池田の絶妙のパットをしのぐ強さを求められる段階で、小平は“ショットの小平”をいかんなく披歴してたくましかった。
池田の2メートル半のパーパットが外れた。小平は必死で寄せたウイニングパットを「真っ白になった頭の中で、入れることだけを意識して入れた」1メートルだった。
小平の身上は誰よりもうまいショットだ
「ショットのうまいものは勝つ」この時点で世界最古の全英オープンが生んだ名言を、そう“脚色”した。サトシ(智)のなせる業である。
東京・世田谷にある駒場学園高の1年生。強い光を放った目と細いしなやかな体を持ったサトシに出会ったのは日本ジュニア選手権、霞が関CCだった。少年とは縁があった。練習場が同じだった。左手一本で250ヤードを飛ばす快男児を見たければ調布市の練習場に行けば必ずいた。「よく練習するね」「はい義務ですから。強くなるための」ぼそっといった。
素人のじいさんの面倒見もよかった。当たらなくて癇癪混じりに「ただ見てないで教えろ!」というと「右手のリストを使いすぎていませんか」というからやってみたら当たった。「それがわかっているならなんでもっと早くいわないんだ」「スイマセン」-そんな間にたくましくなった。
日大進学、08年日本アマで決勝進出。韓国のキム・バイオに7&6にコテンパンにやられたときは悔し紛れに言ったことがある。「目がうつろだ。何を怖がってゴルフやってんだ」―今大会は1か月前から日大・林成之教授の元で“強い心”“強い脳“を鍛えたという。遅まきながら気が付いていたのだ、いい選択だ。
こんな話も、もうしてもいいだろう。ある年のナショナルチームの合宿で寝坊して朝食に遅刻。即刻、帰宅させられた。同じ部屋の4人が“全員追放”だった。そのせいではないが大学は2年でやめアマでプロのチャレンジトーナメントに出場すると優勝。プロ宣言した。
60キロそこそこの細身の体はナショナルチーム時代、白木仁・JGA強化推進本部長の元で70数キロの強靭な体躯に作り上げた。のんびり屋だが、芯がある、池田の4歳下、薗田峻輔と同年、松山、石川の3つ上。そうだ、世界ではマキロイ、ファウラーと同年だ。
日本オープンに勝つと国内のシードが5年間。いい時に勝った。昨年目指した米ツアー・ウエブドットコム挑戦。世界志向にはもってこいの環境となった。行ってこい。世界へ。ただし、今のままでは世界は相手にしない。賞金王付きの日本オープンチャンピオンなら世界中が受け入れる。マスターズ、全米オープンそしてオリンピック、夢は近づいた。いや引き寄せたのだ。