松山7位に好感 武藤のコラム


 米ツアー「ザ・プレーヤー・チャンピオンシップ」の松山英樹は7位に終わったが、見応えがあった。世界ランク14位ながら最終組で世界ランク1位のジェイソン・デーと渡り合い、6打差と完敗も今後に向けては収穫も多く合格点だ。
 その理由は2つ。一つはデーの調子が抜群に良かったこと。初日63のベストスコア、2日目66で2日間15アンダーは、今大会36ホールのアンダー記録。豪州の先輩、グレッグ・ノーマンの記録を更新するすばらしさ。最終日は大量リードに守られて前半こそもたついて見えたが、2位に4打差。4日間一回も首位を明け渡すことない完全優勝だった。誰が頑張っても追いつかない強さだった。
 松山はそのデーと最終日、最終組を2人一組のマッチレース。どんな戦いを見せるかと期待したが、1番でボギー、3番でバンカーを渡り歩きダブルボギー、3日間で積み重ねた10アンダーの”貯金”は7アンダー。これでどう開き直るかとみていたら以後立ち直った。これが合格点の2つ目だ。

 ボギー、ダブルボギーのあと松山は6、13番バーディー。14番でボギーとしたが16番パー5を2オンに成功、イーグルパットは外れたが、バーディーで9アンダーと粘った。対してデーは6、9番でボギーの後、10、12、16番をバーディーとした。
 松山24歳とデー28歳。世界ランク14位と1位の間にはキャリアという目に見えないゴルフ特有の持つ武器の違いがあった。
池と深い林、バンカーとバミューダグラスのラフ。超高速グリーン。そしてあるようでなく、ないと思えば突風が吹く海っぺりの千変万化のコンデション。デーは2アイアンをティーで多用、フェアウエーキープを大事に冷静だった。対して松山はスプーンで刻み、勝負どころはドライバーで果敢に攻めたが、デーとの比較で安全策に見えなかった。今後、さらにティーショットの工夫が必要だ。
デー、15アンダー。2位は米ツアー未勝利のチャペル(米)で4打差。10アンダーの3位には47歳のケビン・デュークら4人。松山は9アンダーの7位。デーとの比較ではキャリア3年2勝と7年の差、デーはこれで10勝目。コース攻略の判断となる使用クラブに1年。いや2年、3年以上のキャリアの差が出ていた。

 1980年創設の難コース、TPCソーグラス。PGAツアーが“ツアー王国”の威信をかけて作りあげたピート・ダイ設計。別名、スタジアムコース。最大難度の設定を世界のツアープレーヤーに供し戦わせようというコンセプトである。
 それにしてもこのところの米ツアーは非常識が常識、となったようだ。高速グリーンは止まった瞬間から方向を変えた。止まったその瞬間、右にそろりと動いた球はそこからあらぬ方向へと果てしなく転がった。グリー上、蛇の動きの、くねくねラインをスネークラインというが、ヘアピンラインが方向を変えるとナイスショットがミスに変わった。
 7200ヤードと距離を抑え、その分難度をとるためにラフは新手の芝を導入、伸ばして刈ったりそのまま寝かせて供したりあの手この手でまどわしにかかる。そう、錯覚や運、不運も含め、すべてを受け入れよ、とプレーヤーに迫る恐ろしい世界へとトーナメントは変わろうとしている。ゴルフは自然との闘い?とんでもない、サディスティックなゴルフゲームの屋外編だ。

 松山の最終日最終組。世界ナンバーワン、デーに堂々と正面から戦いを挑み、戦い抜いて見事だった。スタート直後の乱れは最終日最終組のプレッシャーだ。だが、その後の立ち直りは世界トップの証しだった。今年中にあと1勝、いや2勝?夢ではない。いや、夢に終わらせてはならない。

 
武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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