オークモントの全米オープンは筋金入りのダスティン・ジョンソンが悲願の初制覇 ―またもペナルティーを食いながらついに優勝 武藤のコラム


 米ペンシルバニア州のオークモントCC(パー70)で行われた今季メジャー第2戦、全米オープンは米のダスティン・ジョンソン(31)が4アンダー、2位以下に3ストローク差をつけメジャー初制覇を果たした。これまでメジャーでは3度、不運が見舞いタイトルを逃し続けた悲劇の主人公がついにヒーローに。しかし、今回もまたルールをおかし、パーがボギーになる不運があった。難コース、オークモントが生んだ、アドレス後に風が吹き球を動かすという不運は、何を物語るのか。ダスティン・ジョンソンという史上、最もタフな男のタフなゴルフ人生の顛末を追う。

 「D・J」(ディー・ジェイ)と「U・S・A」(ユー・エス・エー)地元のヒーローをたたえる歓呼がこだました。悲運の男の勝利だった。だが、ダスティンの表情はどこか寂しそう、笑顔は引きつりがちに見えた。
 昨年の大会だ。4メートルのイーグルパットを入れれば優勝というパットを1メートルもオーバーすると、そのパットも外す3パットで2位に沈んだ。“ダスティン、何やってんだ”世界中のゴルファーがその悔しさを共有した。同情、失笑、達観、ゴルフとの取り組み方で人それぞれ評価は異なろうが、同じゴルファーとして“わかる”その胸中を誰もがおもんばかった。その表情が晴れないのは“負の歴史”があったからだろう。

 2010年にさかのぼる。同年の全米オープン、首位で最終日を迎えたダスティンは82の大たたきでタイトルを失った。さらにその2か月後の全米プロ。首位で迎えた最終ホール。ショットを曲げ観客が踏み荒らしたバンカーにいれたのを、ウエットエリアと勘違い、クラブをソールしてペナルティーを課され優勝を逃した。以来、メジャータイトルに縁のない、不運を背負った悲劇の主人公の烙印が押された。

 そうして迎えた今大会だった。31歳、ワールドランキング6位。ジェイソン・デー、スピース、マキロイの優勝候補を引き離して2位スタートの最終日、巡ってきた4度目のチャンスだった。一気に優勝戦線の主役へ躍り出た。
 しかし、またもやアクシデントが見舞っていた。5番、382ヤードのパー4.このホール、ティーショットをグリーンまで100ヤードまで運びバーディーパットは逃したが、80センチのパーパットを沈めてパー。
 だが、このパットの時、アドレスで球が動いたのだ。硬いグリーンに強風。ダスティンは動きそうになる球に警戒して慎重に対応した。何度も素振りを繰り返し集中、何とかパーに納めた。ただボールが動いたことで競技委員を呼び「動いた原因がプレーヤーにない」と無罰の裁定を受けていた。
だが、疑義がテレビ視聴者からの通報で競技委員会に届き委員会はテレビ画面を何度も確認。競技の結果「確かにアドレス後に球が動いている」として1罰打が付いた。裁定には数時間を要し、その決定が届いたのはダスティンが17番に来た時だった。
 一度は無罰と安心したのもつかの間、動揺はあったはずだが、そぶりにも出さなかった。周囲が崩れ生き残ることに精いっぱいのプレーが続いたことが集中度を高めた。いや、過去の不運が打たれ強さを増長させていたのか。驚異の300ヤード越えのティーショット、その鮮やかなフェードボールの弾道は衰えなかった。

 ホールアウト後「何度もチャンスを逃したあとだけにほんとに嬉しいね」と妻子を抱きいった。14年に約半年ツアーを欠場した。酒におぼれゴルフへの意欲を喪失した。「個人的な問題」とだけ発表したが、誰も何も言わなかった。心情を察したのだ。「5番については罰を受ける行為はなかったと思っている。でも勝てたからいいよ」メジャー初優勝が全米オープン。ツアー通算10勝目。不運のヒーローからメジャーチャンピオンへ。遅れてやってきたヒーローはたぐいまれなパワーヒッター、それも強靭な精神力を兼ね備えた筋金入りであることを見せつけた。スーパースターへのスタートを切った。

 
武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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