調子が戻ったようだね、と言いたいが、松山英樹君、謙虚に励め 武藤のコラム


 ノースカロライナ州グリーンズボロで行われた「ウインダム・チャンピオンシップ」の松山英樹は3位に終わった。優勝したのは21歳、韓国の新鋭、キム・シーウーで米ツアー初優勝。ツアーはいよいよ次週から今季フェデックスポイント上位125人によるプレーオフシリーズへ。4週4戦を勝ち抜くトーナメント方式で年間王者が決まる。日本の期待は松山一人にかかるが、最終戦の「ツアーチャンピオンシップ」の30人に残れば世界ナンバーワンへのチャンス到来だが、大丈夫かな~。

 「ウインダム・チャンピオンシップ」は1938年創設のクラシックトーメント。伝説の名手サム・スニード(米)が第1回に勝ってから1965年までに8回の優勝を飾り、これが米ツアー同一大会最多優勝記録。さらに最後に勝ったときが52歳10か月8日のツアー最年長優勝記録。伝統とか伝説とは長くやっていることに意味がある。そんな見本のような大会だ。
 そんな見方をすると個人的にも思い入れがある。実はこの大会、あの青木功選手が米ツアー2勝目にあと一歩まで迫った大会だ。
1985年というとあの「ハワイアンオープン」の3年後、青木快挙の興奮まだ冷めやらむころ。大会は「グレーター・グリーンズボロ・オープン」という名称で開催コースも今回のセッジフィールドとは別のフォーレストオークスCCで行われた。そう、次週は「マスターズ」、青木も気力充実、遠征に帯同する記者も気合が入っていい雰囲気だった。そう、その週、筆者もそこにいたわけである。
青木は予選ラウンドを71,69と好スタート、第3日74と足踏みしたが最終日、最終組から一組前をイーブンの72、通算2アンダーで最終18番ホール、7メートルのバーディーチャンスにつけた。この時点で先にホールアウトしたジョイ・シンデラー(米)が5組前でベストスコアの69、通算3アンダーのトップだった。入れればプレーオフ、米ツアー2勝目が見えていた。ハワイで118ヤードを放り込んで勝った運とボールを小動物に変える男の技がある。「これはもういただきだ」というムード。だが、パットはカップ左を抜けた。新人のシンデラーはオハイオ州立大卒、ニクラウスの大学の後輩に花を持たせてしまったものである。 さて、松山だ。青木が2勝目をあげそこなった試合で3位。筆者にとっては、悔しい思いのぶり返しを恨む。テレビやゴルフマスコミは世界一争いにチャンス、調子が戻ったと騒ぐが、こちらとしては、はしゃげない。トラウマというのか縁起がよくない、そんなこだわりが消えない。
最終日、スタートで3バーディー。しかし、勝負のインの14番でグリー奥から8メートルほどのパターでの寄せが2メートルオーバーすると、返しも外して3パットのボギーはいただけなかった。このあと15番のパー5をバーディーとしたが、“サービスパー5”でイーグルの香りもなかった。そして17番、2メートルにつけたがカップに蹴られて「パットが、、、」とホールアウトした松山の顔を見ると、あのメジャーを2連続予選落ちした元凶のパットは、「復活にはいまだ遠い」と書いてあった。
松山は青木を越えられなかった。上には上がいると反省し、謙虚に励めということだ。韓国の若い王者から6打差もはなされては情けないというしかない。

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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