父が初めて明かした勇作の悩みはイップスだった 武藤一彦のコラム


 男子17年最終戦の「日本シリーズJTカップ」は3日、東京よみうりCC(7023ヤード、パー70)でおこなわれ、宮里勇作(37)が1イーグル、6バーディーの62、通算15アンダーで優勝、賞金4000万円を獲得、今期の獲得賞金を1億8283万円とし初の賞金王に座った。宮里は2013年に続き大会2勝目。今季は最多の4勝、圧倒的な勝利だった。

 

 7アンダーの首位を米国のハンとタイでスタートとした最終組、6アンダー2位の同組 南アフリカのノリスが1番をバーディーとし3人がならぶ波乱のスタート。だが、宮里は強かった。3番でバーディーをとると、4,5番も入れる3連続のバーディー。6番のパー5は第2打を1メートルにつけるスーパーショットでイーグルと一気に12アンダー、あっという間にノリスに5打、ハンに6打の大差をつけた。さらに難ホールの8番パー3でも2メートルにつけるバーディーでなんと29の圧倒的なスコアに、だれもが唖然とした。大差がついてからが難しいのもゴルフ。大逆転劇はつきものだ。そんな心配は鳥越苦労というものだった。宮里のゴルフはついに乱れを見せずインを2バーディー。見事に逃げ切った。

 

 首位の小平智との1700万円を追った賞金王争い。勝てば、文句なしの逆転といわれたが、今季絶好調の30人がそろった日本一決定戦だ。小平のスコアが伸びず、後退したが、他の追随も持ち前のショットの切れ味と復活パットで乗り切った。
 勝ち味の遅さでこれまでの失った、悔しさをこの一戦に込めて、まとめて晴らすような凄みのあるゴルフだった。優勝は何よりの薬になる。長い苦労に凝縮した”しこり”を一気に解きほぐした宮里の強靭な精神力に敬意だ。そして、今後の試合が楽しみ。これまでできなかった冒険を思う存分やってほしい。その先に出てくるものに期待する。

 

 プロ入り16年,37歳。兄・聖志(きよし)妹・藍の宮里3きょうだいの次男。アマ時代から頭角を現しプロ入りは鳴り物入り。だが、初優勝は2013年の日本シリーズ。シード権はプロ入り以来一回として外さないが勝ち味に遅く「うまいが勝弱い、」と言われた。
 藍の32歳での引退という、ゴルフ界、スポーツ界にとっての衝撃的な2017年は、3人の育ての親、コーチの父・優さんが病に倒れ入院生活を送って心配事は絶えなかった。だが、この日、優さんは入院先から元気な姿を見せ、次男の抱えた悩みを初めて明かした。

 

 それは大阪桐蔭高校時代から抱えたパットの不安だった。
 「体に合っていない長いパットに違和感を訴えていたが、その後東北福祉大1年のとき、“お父さん、グリーン上で体が動かなくなった”といってきた。驚いた」という。
 古今ゴルフの名手を襲ったイップス多くのゴルフ生命を絶つ原因となった。主にパットをするときに表れる。手の震え、あるいは意に反せず、1メートルのパットが2メートルも行ってしまう現象を伴う、1メートルから6パットという実例もある。極度の緊張が巻き起こす現象。“治療薬”はない。

 

 宮里は、そしてコーチの父、兄も妹も、“そのこと”に触れるのを極度に恐れた。なぜなら、ゴルファーは“それ”を意識すること自体、すでに病気にかかったことの前兆と思うからだ。父はほっと肩の力を抜いてこの日、いった。
 「悩みを抱えたということで済んだ、といえる今日があったこと。そして、こうして明かせたことがよかった。よくここまできた。今季は平均パット1位だからね」
 1年間を通じて平均パットで1位。宮里の、そして父の晴れがましい顔が輝くのは当然だった。

 

 パットの不安は右手グリップを上からかぶせるクローグリップに代えてから軽減されたという。右手でペンを持つようにグリップに添えるようにしてからの宮里のグリーン上はほんとうに安定していた。今季4勝は、16年までの3勝を1シーズンで超えた。新生・宮里優作の誕生を17年、日本シリーズは引き出した。時と場所と機会が忘れられない伝説を生んで誰の記憶にも残った大会となった。

 

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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