大魚逃した松山、フェニックスオープン2位。 武藤のコラム ―ゆるめちゃだめだ、相手は図にのるぞ―


 米ツアー、24歳の新鋭、ブルックス・ケプカ(米)に1打差2位の松山英樹は惜しい負け方で米2勝目を逃した。13番パー5で予定通りバーディーをとり15アンダーで単独首位に躍り出た、と思ったら14番で3パットした。上から7メートルのバーディーパットが1メートルオーバー、返しが入らなかった。こうしたイージーミスは相手を勢いに乗せるものだが、案の定、ケプカに15番パー5、エッジから10メートルはあろうかというアプローチパットを沈められイーグルで逆転を許してしまった。これで流れは完全にケプカ。
 17番、ワンオン狙いの短いパー4で池まで30センチのところでボールが止まるラッキー。18番も松山が7メートルを沈めれば、プレーオフというピンチも松山のパットが入らず、米初優勝となった。“どうぞ勝ってください”と松山が優勝を献上したとしか思えない。
 松山は1番、セカンドを直接放り込むイーグルと好スタートをきり、3,5番バーディーで一気に優勝争いへ。しかし、その後、チャンスらしいチャンスはなく終盤の大事な局面はバーディーパットがことごとく入らなかった。

 ○米ツアー史上まれにみる松山の日本人離れした追撃
 今大会は2日目インスタートの10番ボギー、11番ティーショットを“池ポチャ”のダブルボギーの40と大崩れ。だが、後半は3連続バーディーの後、もう一つバーディーを加え31と驚異的なカムバックを見せた。最終日はその勢いのまま出足から猛追。一時トップに立った13番では、昨年のメモリアル以来の2勝目がちらついたが、ならなかった。
 勝ったケプカはフロリダ州立大出のロングヒッター。卒業後は欧州ツアーで3年間戦い、4勝と米プレーヤーとしては珍しいキャリアを持つ24歳。マスターズ出場も決めた。松山のゴルフはパットさえ入っていれば楽勝だっただけに痛かった。いや、2勝目を逃したということだけではない。ケプカという男を表舞台に引き上げてしまったという意味で、痛い。今後も松山の前に立ちはだかるライバルを増やしてしまった。この二人はこの日、間違いなくライバルとなった。

 ○タイガー、プロ生命危ぶまれる大乱調で予選落ち  松山、ケプカにババ・ワトソンと新しい波がうねる米ツアーは新鮮で面白い。だが、今回のフェニックスオープンのメインテーマはタイガー・ウッズの大乱調だ。
 「ゴルフだからこんなこともあるだろう」とうがった意見は通用しない。当のタイガーは「誰にもこういう日はある」と冷静を装うが、重症だ。アプローチで30ヤードから5メートルもショートする、バンカーからホームラン、ラフからひっかける。7ボギー、2ダブルボギー、1トリプルボギー。2つのバーディーはあるが、10オーバーの82は目を覆う惨状だった。
 第1日、73のプレーを見ていてこれはおかしい、と思った。アプローチで“転がし”を連発するタイガーのいつにない姿は異様に見えた。明らかにロブ?と見ていると転がしを多用した。それも芯に当たっていないから寄らないのである。タイガーといえばロブ。マスターズの16番で左3メートルにロブで落とし10メートルをゆっくり転がして入れた05年の“伝説のアプローチ”。その手練のワザは、安全な低いアプローチの多用に転じて優勝回数現役最多の79勝へとつなげた。しかし、上げようが転がそうが本質はフェースに乗せるうまさにある。タイガーの天性のタッチ、フィーリングは不変,不屈と思っていた。だが、いまその感覚が全く見られない。
 「前進はしている。試合に出て慣れることが今は大事なときだ」昨年8月以来、半年ぶりのツアー復帰にタイガーは意に介さないが、今大会タイガーの上に起こった現象は見過ごせない。もしかしたら、引退にまで結びつくきっかけとなるかもしれない。次週は生まれ故郷のカリフォルニア州のトーリーパインズの「ファーマーズ・インシュランス・オープン」。サンジェゴ・オープンと言われたころから7勝を挙げた開催コースのトーリーパインズは08年の全米オープンでも優勝した得意コースだ。大乱調から立ち直れるかタイガー。それとも今回のような内容なら?再び長期休養、そして4月のマスターズはブッツケ本番?いやな予感がする。

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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