米男子ツアー、「ワークデー・チャリティー・オープン」(オハイオ州ミュアフィールドビレッジGC、パー72)は最終日、8位から出た松山英樹は5バーディー、4ボギー、1ダブルボギーの73と崩し通算8アンダーの22位に終わった。初日5アンダー67の3位と好スタート、期待したが、ショットが乱れ徐々に順位を落とし最終日、パット乱調で急降下した。
パッティングホームを、上体を起こし、両グリップを引き付けたスクエアな構えに変え期待を持たせた。右手一本でアドレスすると、左手を右わきに挟み、姿勢と整えた。そのあと左グリップをそっと添えると構えがややアップライト。ゆとりと間(ま)が生まれストロークが安定、よく入った。しかし、好調なパットは決勝ラウンドに入り影を潜めた。
ショットの乱れは精神状態に影響、ルーティンも影を潜めパットは湿った。松山のパッティング。パター始動のときトン、トン、トン、と小刻みにグリーン面をたたき、微妙な指先の感覚を整えて繊細、これまでツアー5勝である。ここのところパットの悩み多く気がかりだったが、ルーティンをさらに磨き1日も早く指先の感覚を早く取り戻してほしい。新打法、さらに磨いてほしいものだ。
23歳の日系4世のコリン・モリカワがプレーオフ3ホール目、ジャスティン・トーマスにせり勝った。トーマス27歳、全米プロなど松山を下した”天敵“。それが最終日、3打差もあったリードを大詰めではきだしプレーオフで負けた。信じられない逆転劇だった。モリカワのパット、思い切りのいいプレーが光った。モリカワは2週前の「チャールス・シュワブチャレンジ」、60センチのパットを外しダニエル・バーガー(米)とのプレーオフに”自滅負け”を喫したが、そんな痛手をものともしない大金星だ。聞けばデビュー以来、予選落ちなしの連続通過記録を23戦続けたステディな新人だった。タイガーのツアー記録25戦にはわずかに及ばないが、2位。強豪ひしめくこの時代、ただ者ではなかったのだ。19年の「バラクーダチャンピオンシップ」に次いで2勝目。カリフォルニア大バークレー校時代、アマのワールドランキング1位、ロス出身の日系とあれば応援にも力が入る。
コロナ禍で米ツアーも大幅な日程変更となるなか、大会は医療関係者支援のためのチャリティー大会として急遽、開催された。緊急時にとっさにこうした大会をやってのけるのがアメリカのすばらしさ。次週、恒例の「メモリアル・トーナメント」も同じ開催コースだ。地元出身のニクラウスが、全英オープン開催コースの中でも最もバランスの取れた名コース、ミュアフィールド(スコットランド)を手本に設計した自信のコース。2週連続で同じコース開催は珍しい。これも非常時ならではのハプニング。2013年、松山が米ツアー、初優勝を飾った思い出のコースだ。6勝目に期待したい。
このメモリアル・トーナメントには思い出がある。1976年だ。その年、オハイオは悪天候続き。大会に入ると豪雨、雷雨が襲い決勝ラウンドは7ホールを消化したところで雷雨中断を実に5回にわたって繰り返す非常事態。結局、土曜日はほとんど消化できず、天候がさらに悪化すればトーナメント自体が不成立になる恐れも出てきた。そこで大会を月曜の予備日を最終日とし、54ホールに短縮しようとしたが、問題があった。月曜日は全米オープンの地区予選の開催日で、メモリアル出場選手の何人かもエントリー。会場は別コースだが身は一つ、2つの大会に出ることはできない。
ここで注目されたのがホスト、ニクラウス。この時は選手として出場しながら善後策に裁量を振るった。全米オープン地区予選といっても伝統のナショナルオープン。その予選会の日程変更を全米オープンに迫った。
「メモリアルの決勝ラウンドも全米オープン予選も大事である。だが、ここは地区予選を後日に変更していただきたい」と全米ゴルフ協会(USGA)に直談判、理解を求めた。
何でもないことのようだが、無茶な話である。地区予選といっても伝統のナショナルオープン、全米一を決める全米オープン。予選だからこそ何年も前から計画し準備してある。その日程を変更しろという、これはまさに常識外のことだった。だが、USGAは即座に受け入れた。予選会は水曜日に変更された。トーナメント王国のアメリカのゴルフに懸ける思い入れと愛情を感じたことだった。