日本企業の冠が付いたダイナ・ショアでさくらと藍の新たなライバル新時代が始まった 武藤のコラム


   今週の米女子ツアーのメジャー第1戦「ANAインスピレーション・チャンピオンシップ」は「クラフトナビスコ選手権」から今年、全日空へ冠が代わった。これで女子プロツアー(LPGA)は5メジャーのうち、リコーが冠となった「全英女子オープン」に次いで日本企業が2つめの冠スポンサーとなった。全日空、なかなかやるな、となにやらうれしい。

 伝統の大会である。カリフォルニア・パームスプリングの避寒地にあるミッションヒルズCCは砂漠にダムを造り、水を引いて開発された当時のパイオニアコースの一つ。大会は1972年、「コルゲート・ダイナ・ショア」、1982年には「ナビスコ・ダイナ・ショア」と冠が代わり、83年にメジャー昇格し今日に至っている。ここでこだわりたいのは、ダイナ・ショアである。

 実は米女性歌手の名前である。1950年代のポップス界で数々のヒットを飛ばした金髪、碧眼の美人歌手は日本でいう国民的歌手。目元が柔和で日本女性の暖かさを宿していた。それが活発なヤンキーの強さを中和して日本でも大人気。ヒット曲、「ブルー・カナーリィ」(青いカナリヤ)は日本でも大ヒットした。乙女が鳥かごのカナリヤをわが身に見立て、ハンサムな青年が青いカナリヤとなって現れ、寄りそう、といった恋の想いをこめた歌詞だったように思う。

 ダイナは全米のみならず日本でもアイドルだったのだ。女子ゴルフがツアーとなったとき、その名が大会名に。そして40数年にわたって春の“女子のマスターズトーナメント”として女子プロゴルフを引っ張ってきた。

 感慨がある。1970年、樋口久子、佐々木マサ子が米ツアーに参戦、以後10年にわたり春の3か月間をアメリカで戦った。大和撫子の米ツアー参戦を以後、何度取材しただろうか。4月に日本を発ち、砂漠の町で、チャコ・ヒグチを追い、翌週、ジョージア州オーガスタに移動、マスターズ取材。これにマサチューセッツ州・ボストンのボストンマラソン。そんな40年余に及ぶスポーツ記者時代は年間の海外取材のスタートでもあった。

 ダイナ・ショア、そう、彼女の名前イコール女子プロメジャー第1戦だった。70年代のパームスプリングス空港は空から見るとターミナルは砂漠の中の掘立小屋。山間にゴルフコースが垣間見えるが、今のような大規模リゾートの影すらなかった。男子ツアーのボブホープクラシック(ホープはやはりアメリカで人気の喜劇役者)が1965年にすでに大会を行っていた。いまの「ヒューマナ・チャレンジ」である。

 女子プロメジャーのエポックを刻む新たな時代は日本企業がスポンサーとなって時代を造る。そして、今回、日本勢は宮里藍、宮里美香、上原彩子、野村敏京に加え横峯さくらの5人が参戦する。韓国勢に押され旗色はよくないが、そんなことは関係なし。私の中では、藍、上原、横峯がそこにいることに意味がある。

 この3人があって日本女子ゴルフの今がある。思い起こすと2000年以降の女子ブームはこの3人によって始まった。今でも忘れられないのが02年の日本アマ。上原が諸見里しのぶを6-5で破り優勝した。マッチプレーで争う日本女子アマ、藍はベスト4。3人が沖縄勢で占めた。これに鹿児島の横峯も加わって10代の若手が勢いをつけ女子ツアーの今がある。藍と横峯は全く違った道を歩んだ。藍は主戦場を世界に求め横峯は日本を拠点。それが今年、横峯が結婚を期に米挑戦をスタートする。そして迎えた今回のメジャーである。

 ライバルは初めて本気で闘いを始めた。私は、そう受け止めている。29歳の2人も新たな時代の始まりを日本企業の冠大会をバックに感じているに違いない。

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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