ババイズバック ババ・ワトソンがリビエラでカンバック優勝 こりゃ、マスターズもとる 武藤一彦のコラム


 米西海岸の名門コース、リビエラカントリークラブで開催のPGAツアー「ジェネシス・オープン」(パー71=35 36)は、19日、最終日を行いババ・ワトソン(米)が2年ぶり大会3勝をあげた。第3ラウンドを10アンダー首位で折り返したババは14番、バンカーから直接放り込むバーディーで抜け出し混戦を制した。2012,14年マスターズチャンピオンのワトソンはこれで優勝回数を10勝の大台に乗せた。腰痛の故障からカムバック2戦目のタイガー・ウッズは2日間4オーバーで予選落ち。左手親指痛で欠場の松山英樹の復帰のめどはまだ立たず次週「ザ・ホンダ・クラシック」も欠場する。タイガーは出場する。

 

 米ウエストコーストのリビエラCCはゴルフファンには特別な思いがある。大会は1926年からロサンゼルスオープンとして行われ今年で91回。当初ロサンゼルス近郊のコースを転々としたが、1941年からリビエラに定着、名勝負、名選手を送り出した。中でも交通事故を克服したベン・ホーガンが、1947,48年に2連勝、3勝目を挙げ、復活したことから”ホーガンの庭“とよばれたのは有名な話だ。
 日本にとっても思い出は多い。本題から外れるが、1931年の第6回大会には日本の初の米本土遠征の代表として安田幸吉、浅見緑蔵、宮本留吉のプロが大会に参加した。その時は、コースは別コース。3人は前年の暮れから2か月間滞在してメキシコまで転戦する途中、招待を受けて出場したが、残念ながら予選落ち。脱線ついでに紹介するが、その時、ただ一人予選を通ったのが、引率した現地商事会社、駐在員のトップアマの佐藤儀一さん、という面白いエピソードが残っている。佐藤さんはその後帰国して日本アマ選手権に3連勝した。当時はアマとプロの力は拮抗していたのだ。でもいい話でしょ?歴史は本当に深い。

 

 タイガーにも、そして、日本人にも忘れられないエピソードもある。1984年、というとカラーボール時代の真っただ中のころだ。リビエラでの大会は日本ツアー「ブリヂストントーナメント」と提携、複数の優秀選手を互いの大会に送り交流した。その第1戦には日本の大会をオレンジ色のカラーボールで勝った出口栄太郎はじめ数人の選手が参加。大会が始まると何やらコースがざわつく。すると黒山のギャラリーを引き連れてのっぽの黒人少年がフェアウエーを闊歩している。少年は黒縁の眼鏡をかけたタイガー・ウッズだった。天才と騒がれ成長した17歳は、その時が米ツアーへのデビュー戦。
 しなやかでパワフル。もの怖じしない笑顔、なにより黒人のジュニアプレーヤーのトーナメントでの姿に驚いたものだ。日米の交流初年度、筆者の記者時代、日本チームに帯同、現地にいたことに感謝した。タイガーのツアーデビュー戦だ。我らは歴史の現場にいたのだ。

 

 そして、今大会だ。その時の少年がゴルフを変え、いま41歳で自分を変えようと必死である。けがで苦しむタイガーは果たしてカムバックできるのだろうか。そんな思いに浸りながらババ・ワトソンの復活を受け止めてふと感じるのである。
 ババも39歳、タイガー世代ではないかと。そしてこの日、信じられないシーンをテレビが次々と映し出すのを眺めながらこんなことを思った。
 年寄りのたわごとと受け止めてもらっていい。
 1打リードの緊迫した14番でババはサイドバンカーから直接放り込む離れ業、しかし、その球足はピンに強く当たってがちゃん!と音が聞こえた。ラッキーだった。だが、その後の15番、491ヤードの長いパー4のドライバーショットを340ヤード放ち、セカンドは150ヤード強8メートルへつけた。このホール、先を行ったライバルたちの半数がボギーにし優勝戦線から落ちこぼれ豪快にクリアしたのだった。
 ババのハイライトは、14番のチップインのラッキーと15番のティーショットとセカンドショット。たった3発の幸運がその後のすべてを変えた。「いけるぞ」と乗った。「ゆくぞ」と燃えた。勝因は、この後16,17番の別人と化したババのなせる業と結論できる。これぞ、マスターズを勝った2014,16年のチャンピオンの“ババ帰り”だ。いや、弟が生まれたお兄ちゃんが赤ん坊に戻ってしまうのを“赤ちゃん帰り”と言う。―そんな感覚じゃなかったか、と言いたい。
 ババは今大会3勝。今度のマスターズでも3勝目が転がり込む、と見た。それが同世代のお兄ちゃん、タイガーにどう反映、影響するのかみてみたいと思って、妄想をかきたてている。

 

武藤 一彦(むとう・かずひこ)
ゴルフジャーナリスト。コラムニスト、テレビ解説者。報知新聞には1964年入社、運動部に所属、東京オリンピックはじめボクシング、ゴルフ、陸上担当。編集委員、専属評論家も務めた、入社以来50年、原稿掲載の”記録”を現在、更新中。
日本ゴルフ協会広報参与、日本プロゴルフ協会理事を経て日本プロゴルフ殿堂表彰選考委員、日本ゴルフ振興協会広報メディア委員、夏泊ゴルフリンクス理事を務める。

ゴルフは4メジャーのほか、ワールドカップなど取材、全英オープンは1975年から取材し日本人記者のパイオニア的存在。青木功のハワイアンオープン優勝にも立ち会った。1939年生まれ。東京都出身、立大出。

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