優勝争いはプレーオフにもつれ込みそのファーストホールで劇的なイーグルが生まれ決着がついた。日本男子ツアーの「マイナビABC選手権」は、最終戦の日本シリーズまで6週を残した10月28日、兵庫・ABCゴルフクラブの最終日、劇的な結末を迎え、優勝争いは32歳の木下裕太と25歳の川村昌弘が72ホールを終わって15アンダー、3位以下に2打差をつけプレーオフ。その18番パー5のプレーオフはともに2オンに成功、川村が6メートルのイーグルパットを外すと、木下は4メートルをものの見事に真ん中から沈めるイーグルで初優勝を決めた。木下裕太、初優勝。今季日本ツアーは12人の初優勝者となった。
劇的なイーグル決着。木下はしばらく、しゃがみ込んだままパターを頭上に差し上げ首を深く両肩に沈め、立ち上がらなかった。顔を上げると涙でくしゃくしゃだった。
日本の長いトーナメントの歴史でも記憶にない幕切れ。そう、1983年、ハワイアンオープンの青木功が最終18番のイーグル優勝が有名。しかし、あの試合は118ヤードからのウエッジショットの第3打を2バウンドで放り込む青木ならではの熟練の技。それと比べれば、今回は2人そろって2オン。それも至近距離のイーグルチャンス。これを地味というか、すごいと喜ぶかは個人の問題。しかし、ゴルフが異質なスポーツに変わったことをいやがうえにもはっきりと見せつけたという点では象徴的な出来事といっていいだろう。
技とか、経験値はもう過去のものなのだ。ゴルフはパワーゲームに向かってエンジン全開のスポーツになってしまった。なぜか心の隅がシーンとなったことをここで明かさなければならない。
木下裕太。体重172センチ、72キロ。プロ11年生。8歳でゴルフを始め17歳で関東ジュニア優勝、日大を3年で中退、プロ入りしたが、2部ツアー暮らし。この試合が日本ツアー36戦目はキャリアとしてはいかにも経験不足だ。今大会は昨年末7日間かけて争うファイナルQT、18年シーズンの出場権順位争い30位での出場。そもそも試合に出られたこと自体が奇跡だ。今季の日本ツアーは本命不在の大乱戦。常連たちが疲労困憊し欠場者が続出したのが幸い、ぎりぎりで参加がかなったのである。
得意クラブはドライバー。300ヤードを常時超える飛距離が武器。今季はフェアウエーヒット率が向上、飛んで曲がらない「トータルドライビング」の3番目と安定したドライバーの打てる飛ばし屋だったことが幸いしたようだ。初日66の首位、1打差2位スタート、“どうせヤセ馬の先っ走り”という空気の中、2,3日と首位にしがみついた。最終日は4番から3連続バーディー、14番でボギーをたたくが、15、16番とバーディーで69。3位から川村が67のベストスコアで並ばれたが、最終組で粘りぬいた。
最終日、こんなことがあった。スタート直後の1番のグリーン上。木下は30センチのパーパットを“お先に”とタップするとくるりと回った球はふちに止まってしまった。痛恨のボギーか、と歯ぎしりしていると球はわずかに揺れ動いた。「入ってくれ」と祈った数秒後、ボールはコトン、と落ちパーを拾っている。
ひょんなことから昔から気になる選手だった。この日の1番ホールのエピソードはあとで知ったが、その瞬間「千葉ちゃんやったか」とふと思ったことである。
“千葉ちゃん”こと千葉晃プロは今年の8月、73歳で逝ったプロゴルファーである。ジュニア育成一筋、一徹もので知られ千葉県の練習場、北谷津ゴルフガーデンといえばジュニア教育のメッカ。そこのヘッドプロとしてジュニア時代の池田勇太、市原弘大、そして木下らを育て、プロゴルフ協会時代はジュニア育成のトップとして指導に当たった。森ビルの静ヒルズコースでは畑岡奈紗らも育てた名物プロだ。実は千葉ちゃんは、筆者の中学校、東京は世田谷区立北沢中学の後輩。会うたびに池田をはじめ市原のことを熱く語りあう仲だった。木下のことは「池田より飛ぶすごいのがいる。同じユウタって名前。いずれ強くなる、先輩、よろしく面倒見てやってください」と会うたびにいわれていた。
さて、1番のラッキーなパーパットである。千葉晃が天国から“裕太、しょうがねーな、今回だけだぞ”と言って風でも吹きかけたに違いない。そうじゃなきゃ、コトンと落ちるなんてあるわけないのではないかと推測する。ゴルフっていうのは、新人には厳しく当たる、特にひねた新人には苦労を強いるのが、常套手段。そんな過去を何回も見てきた。今回もいつもの意地悪化と思ったが、木下に女神の目が注がれた。 スポーツには勝敗がつきものだが、勝っても負けてもかかわりなく喜びを分かつことができるゴルフのプレーオフは最高に素晴らしい儀式だと、常々、楽しんでいる。今回は千葉ちゃんのおかげもあって忘れられない名勝負を見せてもらったと感謝している。