松山英樹の「ソニー・オープン・イン・ハワイ」は心配した通り、悪い方に出た。夢の島ハワイで83年の青木功以来、32年ぶり優勝のかかった松山だったが、第3ラウンドのカットラインで最終日に進出できず厳しい結果となった。がっかりだ。
前週の「現代チャンピオンズ」3位と2015年シーズンの好スタートを切った松山にワイアラエでのハワイ第2戦に期待した。だが、苦手コースに手を焼き、第3ラウンドのカットラインに最終日進出の夢を絶たれあえなく予選落ちした。アマ時代、3年連続予選落ちした同大会。ようやく予選突破しホッとしたのも束の間、米ツアーの決勝ラウンド進出者が79人を越えた場合、70位までしか最終日のプレーをできない、という規定にかかっての苦渋となった。
南国特有のバミューダ芝は癖があり「グリーンで苦労するだろう」と本欄では、「優勝は5分5分」と先週あえて懸念を匂わせたが、案の定、松山はパッティングに苦しみショットも乱れ3日間72,66,72のイーブンパー78位に「今の自分の力です」とうなだれた。
優勝はジミー・ウオーカー(米)が20アンダーで大会2連勝。前週の「現代」で最終日に首位で18番にきながらわずか1メートルのパットを外しプレーオフに持ち込まれて敗れた悔しさを晴らした。米ツアーの強さ、したたかさはこのあたりのしぶとさにある。めげない、あきらめないのだ。それに比して日本勢は岩田寛が2日間140、池田勇太、今田竜二、宮里勇作は146でいずれも予選通過できなかった。2000年以降、最終日に日本勢の姿のない史上まれにみる「さみしい大会」となり、うなだれる。
ハワイアンオープンは1929年、日本人が初めて米遠征した歴史的な大会だ。大会はその前年にスタート。第2回大会には1922年の全米オープン優勝のジーン・サラゼン、27年は全米オープン優勝のトミー・アーマーらトッププロが大挙出場。日本からは宮本留吉、安田幸吉の2人が初の日本人プロとしてアメリカデビューを果たした。そろって好調だった。宮本は2日目に3位、安田幸吉も好調に予選を通過した。最終日は1日36ホール。宮本はデビュー戦で最終日・最終組を、のちにマスターズチャンピオンとなるクレイグ・ウッド、ホートン・スミスと回る存在感をみせた。のちに青木が優勝した83年は日本で初の快挙、と大騒ぎしたが、すでに先人は“見せ場”を造って頼もしかったのだ。日系移民の人々の興奮は極致に達し、想像するに「がんばれ」の日本語がワイアラエに響き渡ったに違いない。身が震えるほど興奮する。しかし、初体験、風雨に見舞われると宮本は78、82と崩れ、それでも13位。安田も77,81と苦戦したが、17位と頑張ったのである。優勝は宮本と同組、最終組のウッドだった。
1929年といえばベン・ホーガン、サム・スニード、バイロン・ネルソンの時代。アメリカゴルフの第1期黄金時代。トーナメントは3メジャー中心で、マスターズ創立が1934年、遠い昔である。 だが、すでにハワイアンオープンがあったことはやはりアメリカの深さ、でかさだろう。大会は、当時はローカル大会。PGAツアーの公認となるのは1965年だが、トッププロがほとんど出場するこの盛り上がりこそ夢の島なのだ。
そして、その第2回大会に宮本、安田の両選手のいることが奇跡なのである。実は日本のプロトーナメントの始まりは1926年の日本プロ選手権。奇しくもハワイオープンと日本最古の大会はわずか2年の違いで開催されている。その両大会に日本の2選手が出場していることに運命を感じるのである。
2015年は終戦後70年である。周知のとおり、1940年、日本がパールハーバーに奇襲をかけて始まった太平洋戦争は6年間にわたりスポーツ、文化の交流をはじめすべての事柄が中断を見た。人類はそうした“遠回り”を経てなお争いを続ける悲しい歴史を蒸し返し、いまなお中東が重苦しいが悲しいことだ。
さて、今年のハワイ。栄光の日米ゴルフの歴史に汚点を残した。5人もが出場して全員が最終日に一人も進出できなかった日本ツアーのひ弱さに苦言を呈するしかない。オフシーズンでこんなものだ?そんな言い訳は聞きたくもない。選手には真に強いものが求められるゴルフ界であることの自覚を。関係者には、本当に強い選手だけが生き残る場を作り、その中で死にもの狂いで戦う選手だけを選び派遣する厳しさをもってほしい。